第114話 伊織の決断

文字数 656文字

 が、その中で戦場にとどまったままの部隊があった。九条軍である。彼らは自分たちの将を必死に探していたのだ。
 一面に生い茂る葦は捜索の邪魔となり、兵たちの焦燥をつのらせる。
 伊織は刀を手に葦を薙ぎ払い、時に水軍の兵と斬り結びながら、懸命に隼人の姿を求め続けていた。
 霧の中で敵と斬り合ったわずかな時間の後。振り返った視界に隼人の姿はなかった。
 あの時、もっと注意していれば……。
 悔やんでも悔やみきれない自責の念が伊織を苛む。
 時間が経つにつれ、口にこそ出さないが誰しも最悪の事態を想定していた。ならば、せめて亡骸だけでも連れ帰らなくては。
 だが隼人は見つからなかった。
 戦闘の混乱の中で、忽然と消えてしまったのである。
 佐伯の迅速で的確な指示のもと、撤退は完了しつつあった。伝令が、
「一刻も早く街道までお退きくだされ!」
 と要請を告げに来る。
 伊織自身、これ以上戦場にとどまっていては、死傷者が増えるばかりだと感じていた。
 副将である桐生の父も、兄も深手を負っていた。
 伊織もまた傷を負っていたが、今は父に代わって指揮を取れるのは自分しかいなかった。
 撤退をうながす使者が、再度やって来る。
 血が滲むほど唇を噛みしめ、伊織は決断を下した。感情を押し殺した冷徹な言葉が口からほとばしり出た。
「副将・桐生元基の名代として桐生伊織が命ずる。すべての九条軍はすみやかにこの場から撤退せよ!」 




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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