第118話 投げつけられた扇

文字数 799文字

 一瞬、頭の中が真っ白になるのを藤音は感じた。
 今、この者は何と言った……?
 藤音は胸に手をあてて息をつき、眼を閉じた。
 呼吸を整えると瞼を開け、問いただす。
「行方知れずとはいかなる意味なのですか。いったい羅紗で何があったのです? 説明してください。わたくしにわかるように」
 乞われるままに伊織は話し始めた。
 王都に羅紗水軍が奇襲をかけてきたこと。九条軍は王宮の地下道を使い、街道沿いの陣地まで撤退の道を開こうとしたこと。しかし霧が深く、待ちかまえていた羅紗の兵に襲われ、戦闘の中で隼人を見失ってしまったこと。
「必死にお探ししましたが、お姿は見つからず、いつまでも戦場にとどまっていてはわが軍の死傷者は増すばかり……やむをえず撤退いたしました」
 聞いていた藤音の顔色が蒼白に変わってゆく。
「では、そなたたちは殿を置いて逃げたと……見捨てたと申すのですか ⁉」
 詰問する藤音に伊織は一言も弁明できない。
 どれほど罵られようと事実を伝えなければならなかった。そのためにこんな体を引きずって城までやって来たのだ。
「卑怯者! 何ということを……! それでも武士ですか ⁉」
 自分でも感情が制御できなかった。藤音はわなわなと唇を震わせながら、手元にあった扇を力まかせに投げつけた。
「藤音さま ⁉」
 勢いのついた扇は、伊織をかばって間に入った桜花の背中をしたたかに打ちつけ、床に落ちた。
 傷ついた伊織を守るように、桜花は懸命に両手を広げて(かか)えこむ。
 わかっている。藤音が悪いのではない。
 藤音がどれほど隼人の帰りを心待ちにしていたか、そばにいた桜花はよく知っている。
 なのに、あのような(むご)いを知らせを受けたら、怒りや哀しみに絡めとられてしまうのも無理はないのだ。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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