第117話 悪い予感

文字数 760文字

 それでも伊織は足を引きずり、広間の中央、主の席の前まで進もうとしていた。
 重傷で動けぬ父と兄に代わり、自分には羅紗で起きた出来事を報告する義務がある。
 桜花は人垣を押し分けるようにして伊織に近づき、ふらつくその体を支えた。今の伊織は気力だけで動いているようなものだ。
 こみ上げてくる涙をこらえながら、一緒に少しずつ歩を進めていく。
 だからなのだ。伊織はあまりにも弱っていて、だからその魂の輝きを感じ取れなかったのだ。
 桜花と共に主の前に腰を降ろし、伊織は深く頭を下げた。
 藤音もまた伊織の気迫に応じるように、しゃんと背筋を伸ばして上座についていた。隼人がいた頃は隣に座り、さまざまな報告を受けていた場所だ。
 居合わせた人々の注目の中、はやる気持ちを押さえて藤音は口を開いた。
「羅紗からよくぞ戻られました、伊織どの。見れば、だいぶ怪我がひどいようですが、動いて大丈夫なのですか」
「お気遣い、かたじけなく存じます。本来なら副将であるわが父から直にご報告いたすところですが、あいにく深手を負っておりまして、代理で自分がまいりました」
「副将どのまで……」
 藤音が形のよい眉を曇らせる。
「それで、殿は? 隼人さまは今、どうしておられるのですか」
 すぐには返答がなく、沈黙が流れた。やがて頭を垂れたまま、伊織は苦渋に満ちた口調で告げた。
「申し訳ございませぬ……」
「何を……謝るのですか」
 藤音は膝の上で両手をぎゅっと握った。伊織の様子からは悪い予感しかしない。
「答えてください、伊織どの!」
 語気を強める藤音に、伊織は意を決して声を絞り出した。
「殿は戦いの最中、行方知れずになりましてございます!」




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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