第58話 桜花の居場所

文字数 731文字

 中に入ると、部屋には伊織が日頃身に帯びている刀だけではなく、鎧や兜、武具一式が揃えて置いてあり、出陣という現実がいやでも胸に迫ってくる。
 どうした? と何気なく問いかける伊織に、桜花は口ごもりながら、
「えっと、あの、お願いがあるのだけど……」
「お願い?」
 訊き返す伊織に、小さくうなずく。
「実はね、わたしの使っている部屋は、今日遠海に到着した家族に貸してしまったの」
 話がよく呑みこめず、伊織は首をひねる。
「お父さんが明日出陣する家族がどうしても見送りに来たくて……。でもここまで来たものの泊まるところもなく、子供たちも小さいし、途方に暮れている姿を見たら放っておけなくて……」
 ははあ、と伊織は得心した。つまり桜花は困っている家族連れを野宿させるのに忍びず、自分の部屋を提供したというわけだ。
 まあ、桜花らしいといえば、実に桜花らしいが。
 しかし、そうなると……。
「わたし、居場所がないの。おじいさまの屋敷も今日は兵でいっぱいだろうし。だから、邪魔しないから、今夜はここにいていい……?」
 胸の前で両手を組み合わせて、うつむいたまま、消え入りそうな声でたずねてくる。
 伊織は一瞬、返答につまった。
 桜花の申し出は伊織自身、口にこそしないが心の底で望んでいたことで、嫌であろうはずがない。
 だが桜花は今も九条家に仕える巫女であり、しかも明日は戦勝祈願の舞いを奉納するという大役がある。それを忘れてはならない。
 そのことを頭に叩きこんだ上で、伊織は静かに襖を閉め、桜花をふわりと抱き寄せた。
「もちろんだ。今夜はずっとここにいるといい」




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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