第61話 静かな夜

文字数 594文字

 優しいまなざしで、伊織は桜花にむかって手を差しのべた。
「おいで──桜花」
 桜花はためらわず、まっすぐに伊織の懐に飛びこんでいく。
 甘やかで、切ない夜。
 二人はひとつの寝具に身を寄せあい、桜花はくすっと笑った。
「覚えてる? 子供の頃、やっぱりこうして一緒に眠ったわ」
「だいぶ昔の話だがな」
「ねえ、伊織」
 間近で瞳を見つめ、頬にふれる。
「わたし、あなたが帰ってくる時までには、きっと後任の者を探しておくわ。住む家も整えて、すぐにあなたに嫁げるように準備しておきます。だから、きっと無事に戻ってきて……」
 愛おしさがこみあげ、伊織は桜花を強く抱きしめた。桜花も細い腕を伊織の背中に回す。
 今夜、この国で。いったいどれほど多くの家族が、夫婦が、恋人たちが、別れを嘆いているだろう。
 人々の哀しみの気配を感じながら、桜花は伊織の腕に(いだ)かれて眼を閉じた。

 静かな夜だった。
 耳をすませると、館の中にいても、わずかに波音が聞こえてくる。
 先刻までは明日の出陣にそなえ、あれこれと手配や指図に忙しかったのだが、夜ふけともなれば訪れる者とてない。昼間の喧騒が嘘のようだ。
「お疲れになられたでしょう」
 いたわりをこめて声をかける藤音に、隼人は少しね、と微笑してみせる。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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