第73話 海原

文字数 675文字

 蒼天(そうてん)の下、冷たくはあるが海風が心地よく吹きすぎていく。
 早朝に真砂の港を出てから、半日ほど。
 隼人は船の舳先に立ち、前方に眼をこらした。といっても視界に映るのは海ばかりだ。
 果てしなく続く海原には島影ひとつ見えない。今、世界にあるのは空と海と自分たちの船だけのような気がしてくる。
 ふっと藤音にもこの風景を見せてやりたいと思った。これが戦に行くのではなく、藤音が一緒だったら、どんなにか楽しいだろう。
「波は少々高いですが、順風です。この調子なら十日とかからずに羅紗の港に着きましょう」
 隣で曽我兼光が説明してくれる。隼人はこの水軍の老当主と共に、先頭を進む安宅(あたけ)と呼ばれる軍船に乗っているのだ。
 大将船である安宅は、長さ百尺(約三十メートル)、左右の舷側に五十ずつ、計百挺の櫓。
 漕ぎ手と戦闘員を合わせて百八十名が乗りこむことのできる木造の大型船である。
 この安宅を初め、曽我水軍の規模は軍船、物資を運ぶ輸送船など、大小あわせて五十隻の船団である。
「しかし、草薙の方々は大変ですな」
「ええ、この事態は考えてもみませんでした」
 眉を曇らせ、隼人は甲板に出ている九条の将兵たちに視線を巡らせた。共に乗りこんだ多くの者が青白い顔をして、ぐったりと座りこんでいる。
 船酔い、だった。
 海に面してはいても、水軍など持たない草薙の将兵である。船に慣れていない者がほとんどで、皆、ばたばたと船酔いにやられてしまったのだ。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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