第60話 武士の誓い

文字数 602文字

「……ごめんなさい、伊織」
「気にしないで、桜花が使ってくれ」
「そうではなくて祝言が延びてしまったこと。わたし、ずっと伊織を待たせてしまっている」
 後任者がなかなか見つからないところに、この戦だ。いったい、いつになったら祝言が挙げられるのだろう。
 いや、祝言どころか、次はいつ会えるのかさえ、わからない状況なのだ。
 一気に悲しさが押し寄せてきて、桜花は両手で顔をおおった。胸がきりきりとしめつけられ、涙がこみあげてくる。
 あわてふためいたのは伊織である。桜花が涙もろいのはよく知っているが、それでもやはり眼の前で泣かれるのは辛い。
「な、泣くなっ。桜花のせいじゃない。桜花は少しも悪くない」
 聞こえてはいるのだろうが、泣きやまない桜花に、伊織は意を決したように立ち上がった。
「伊織?」
 やっと顔から手を外し、伊織を見上げた桜花は小首をかしげた。
 何を思ったのか、伊織は鞘に収まった刀を持って、枕もとに置いたのだ。
 首をかしげたままの桜花に、伊織はおごそかに告げる。
「俺は祖父どのに、桜花が巫女の座を降りて祝言を挙げるまでは、決して契らないと誓いをたてた。武士の誓いは守らねばならない」
 だが、と苦笑交じりに続ける。
「こんな非常時だ。添い寝くらいなら、祖父どのも大目にみてくれるだろう」




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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