第70話 別れ

文字数 658文字

 一行の最後を共に歩きつつ、伊織は小声で桜花を呼んだ。
「桜花」
「なあに?」
「もしも俺が羅紗から戻ってこられなかったら、どうする?」
「縁起でもないことを言わないで」
「万が一の話だ。桜花はどうする?」
 そうねえ、と桜花は顎に人差し指を当てて考えこんでから、
「その時はおばあさんになるまで、巫女として九条家にお仕えさせていただこうかしら」
「しかし桜花は天宮本家のひとり娘だろう。いいのか?」
 仕方ないわ、と桜花は伊織の顔を見上げた。
「だって、わたしは伊織以外の誰のもとへも嫁ぐ気はないもの。おじいさまは嘆かれるかもしれないけど……」
 桜花の気持ちは嬉しかったが、同時に冷や汗ものだった。天女の末裔と言われ、由緒ある天宮家の行く末がかかっている。責任重大ではないか。
「だから藤音さまが仰せになっているように、あなたが無事に帰ってきてくれればいいのよ」
 これから戦に赴こうという状況下、いとも簡単に言ってのける。
 やがて一行は乗船口まで来た。ここから先に進むのは出陣する男たちだけである。
 女たちは足を止めた。藤音が一歩前に出て、
「ご武運を、とは申しませぬ。ご無事のご帰還を心よりお待ちしております」
 隼人は静かにうなずいた。
「皆と一緒に、きっと戻ってくる」
 ぎこちなくではあるが藤音は微笑んだ。涙は見せない。昨夜、約束したように。
 あとはただ桜花も瀬奈も、瞳を見かわして別れを告げるだけだ。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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