第65話 祈りと舞い

文字数 629文字

 藤音の(はかな)い願いをよそに、翌日は快晴だった。
 海は()ぎ、蒼穹(そうきゅう)が広がっている。
 朝の陽光を浴びつつ、曽我水軍の輸送船が三隻、遠海の港に入ってきた。
 出陣する草薙のすべての兵、食糧、武器や装備を乗せてひとまず真砂の港まで行き、そこで各軍船に兵たちを分散させ、羅紗に向かって航行する段取りになっている。
 もともと大義などない戦である。華やかな出陣式など何もなかった。唯一、桜花の舞いの奉納だけが華を添える。
 曽我水軍の船が順調に入港を終えると、船着き場の近く、一段高くしつらえた舞台に、華やかな装束をまとい、手に扇を持った桜花が上がった。
 それを合図に雅楽が鳴り始める。
 形式上は戦勝祈願だが、伊織に打ち明けたように桜花にはそんなつもりは全くなかった。
 ただ、この戦が早く終わるように、皆が無事で帰ってこられるように、と祈るだけだ。
 ゆったりとした、どこか哀愁を漂わせる音色にあわせ、(はな)(かんざし)をつけた桜花は軽やかに舞っていく。
 優美な舞い姿を見つめる人々の中で、伊織は誇らしい想いを胸に抱いていた。
 この戦から戻ったら。今、人々を魅了している、あの可憐な少女が自分の妻となるのだ。
 ひととき、戦すら忘れてしまいそうな雅な時間が流れた後。
 音楽が止み、桜花は一礼すると舞台から降りていった。ひと呼吸おいて大きな拍手が湧き起る。
 降りる途中で伊織と眼があったが、今の桜花は公の立場にいる。微笑だけして通り過ぎる。
 これが九条家に仕える巫女としての、最後の舞いになるだろう。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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