第141話 かけがえのないもの

文字数 699文字

「どうでした? 皆、驚いていたでしょう」
「はい、それはもう。一同、眼を白黒させておりました」
 これで誰を隼人の後釜にすえるかなどという茶番は終わりだ。
 愉快そうに笑う如月の背後に桜花がいるのに、そこで初めて藤音は気づいた。
「しばらくぶりね、桜花」
「藤音さま、ご気分はいかがでございますか」
「もう少し、吐き気がおさまるとよいのだけど……」
 つぶやくように言う声は消え入りそうに細い。
「でもね、わたくしはうれしいの。殿が出陣される前、離れていても一緒だと思えるようにと願って……望みはかなったのだから。わたくしはひとりぼっちで置き去りにされたわけではなかったのよ」
 あの夜だ。
 切なくて、苦しくて、でも愛しくて。
 身も心も激しく愛しあった出陣前の夜。隼人はかけがえのないものを残していってくれたのだ。
 話し終わったとたん、また吐き気がこみ上げてきて、藤音は両手で口をおおった。しかしろくに食べていないので、吐こうにも吐くものがない。
 如月は急いで駆けより、横になったままの藤音の背中をさする。
 桜花は黙って二人の姿を見つめていた。
 確かにこの様子では、効果は折り紙つきでも、世にも不味い祖父の薬湯は飲めそうにもない。
 とりあえず吐き気がおさまると、如月と目線を交わし、桜花は藤音の枕もとに座った。
「藤音さま、お手を貸していただけますか」
 そう言って手を差しのべる。藤音は不思議そうな顔をしたが、乞われるままに右手を掛け布団から出す。
 桜花はその手を両手で柔らかく握った。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み