第89話 素朴で難解な疑問

文字数 786文字

「気に入った娘がいたら、一晩お相手させますぞ。異国の女を愛でてみるのも一興かと存ずるが」
 下卑た笑いを浮かべる敷島を見すえ、隼人は毅然と言い放った。
「生憎ですが、そのような気づかいは無用です」
 あの娘たちにも恋人や家族がいるだろう。力をかさにきて女人を道具のように扱うなど、到底受け入れられるものではない。
 知りたかった話はだいたい聞けた。
 潮時だろう。隼人はすっと立ち上がった。
「明日からの行軍がありますゆえ、今夜はこれで失礼いたします」
 背後で敷島が何か言っているようだったが、隼人は振り返らずに宴席を後にした。
 与えられた部屋にひとり戻ると、寝台に腰かけて大きく息をついた。どっと疲れが押し寄せてくる。
 呑気に物見遊山に来たわけではないと覚悟はしていたが、これが実情だ。
 明日、兵たちに話さねばなるまい。九条軍のおかれた状況……自分たちは軍勢の最後尾だという現実を。
 ふと先ほど酒宴で見た娘たちの姿に藤音が重なった。
 ああ、そうだ。藤音も嫁いできた当初は心を閉ざし、あのような哀し気な顔をしていた。
 笑ったらもっとずっと綺麗だろうと思っていたから、朝顔の鉢を届け、初めて微笑んでくれた時はとても嬉しかったものだ。
 火の気のない部屋は寒々としていて、寄り添って眠った藤音の体温が無性に懐かしく思い出される。
 異国でのひとり寝の夜。人肌の温かさが恋しくないと言えば嘘になる。だが、求めるのはあくまで愛しい者のぬくもりだ。
 どうして人は争うのだろう。なぜ互いを認めあって穏やかに暮らせないのか。素朴だが、途方もなく難解な疑問が浮かぶ。
 答えなど出せぬまま、隼人は窓の外へと眼をやった。
 煌々とした月明かりが人影とてない異国の港を照らしていた。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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