第74話 労働で

文字数 657文字

「まあ、そのうち慣れて楽になるとは思いますが……」
 兼光が気の毒そうにつぶやいた。
 曽我水軍の者はこの程度の波と揺れなどものともせず、草薙の将兵の背中をさすってやったりと、介抱しているありさまだ。他の船に乗りこんだ者たちも同じような状況だろう。
 その中で隼人はいたって元気だった。
 眼を輝かせて珍しげに船の中を歩き回り、帆を張るさまを最初から最後までじっくりと眺め、船酔いなどしている暇はないといった調子だ。
 そんな様子を見るにつけ、兼光はやはりこの若者を婿にしたかったと、ひそかに(ほぞ)を噛んだ。
 だが、いくら望んでも隼人にはすでに正室がおり、しかも仲睦まじいという。孫娘の茉莉香を側室にさせるわけにはいかず、世の中とはうまくいかないものだ。
「曽我さま」
 名を呼ばれて兼光は、はっと我に返った。
「何ですかな」
「船底に行って、櫓を漕いでみたいのですが」
 突飛な申し出に兼光は眼を丸くした。
「なんと、大将自らが水夫に混ざって櫓を漕ぐと仰せか⁉」
 隼人はにこっと笑顔をむけて、
「せっかくの機会ですから、やってみたいのです。そもそも船賃は労働で、とおっしゃったのは曽我さまではございませんか」
「それは兵卒の話でござる。九条軍の将に櫓を漕がせたとあっては……」
「将などといっても小さな部隊です。威張れるようなものではありません。足手まといにならないよう気をつけますので、ぜひやらせてください」




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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