第43話 たったひとつの方策

文字数 756文字

 藤音に制止され、ようやく隼人は壁を叩くのを止めた。手のひらに爪がくいこんで血が滲み、壁を叩き続けた手は赤く腫れている。
 その手に藤音の涙がこぼれ落ちた。
 これほど取り乱した隼人を見るのは初めてだった。
 地球儀を回しながら、いろいろな国があると教えてくれた。いつか海の向こうへ行ってみたいと話してくれた。
 しかし、それは決して戦のためではないはずだ。隼人の夢を知る藤音には、誰よりも辛さが理解できる。
「ひとつ、方策がこざいます」
 自分の両手に隼人の手をつつみ、眼を伏せながら、藤音はぽつりと言った。
「先ほど、広間を退出される際、蘇芳さまは耳打ちなさいました。わたくしが蘇芳さまのものになり、共に都に行くのであれば、草薙からの出兵は考え直してもよいと……」
 一瞬、呆気にとられた隼人は語気を荒げて、
「馬鹿なことを申すな!」
 うつむいたままの藤音の肩をきつくつかむ。
「藤音を差し出して得る安寧など、わたしは欲しくもない!」
「ですが、他に……」
「それとも藤音は行きたいのか? 蘇芳と共にきらびやかな都に行きたいのか?」
「そんなはずがございません!」 
 とっさに藤音は叫んでいた。涙がぽろぽろと頬を伝い落ちていく。
「わたくしの幸せはここで、隼人さまと共に暮らすことですのに……」
 言葉をつまらせる藤音を隼人は息苦しいほど強く抱きしめる。
「ならば、そのような話、二度とするな」
 あふれる涙をぬぐうのも忘れ、藤音はこくりとうなずいた。
 一時は隼人のために、蘇芳の意のままになってもよいと思った。
 けれど、やはり心は偽れない。自分がこうして腕に抱かれていたいのは、この世にただひとりなのだ。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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