第120話 喪失感

文字数 629文字

 信じない。信じられるはずがない。約束したのに。必ず無事で戻ってくると。
 いや違う。本当は自分が強引に約束させたのだ。隼人はずっと困った顔をしていた。
 あまりに大きな喪失感に藤音は震えた。
 明日からどうやって生きてゆけばよいのか。
 泣きじゃくる子供をあやすように、如月はただ黙って優しく藤音の背中をさすり続けた。

 藤音の毅然とした後姿が廊下の向こうに見えなくなると、伊織は大きく息をついた。
 気力は尽きようとしていた。絶え間ない激痛で体がばらばらに千切れそうだ。
 藤音を悲しませ、人々を落胆させるだけだったにせよ、役目は果たせた。あとはもうこの身がどうなってもいい。
 ぐらりと体が傾ぎ、桜花の声をおぼろげに聞きながら、伊織はその場に倒れ伏した。

 どのくらいの時が過ぎただろうか。
 ゆるやかに瞼を開けると、寝かされていたのは城内の自分の部屋だった。かたわらでは自分の右手をしっかりと握ったまま、桜花が寄り添って眠っている。
 声をかけようして伊織は言葉を呑みこんだ。
 桜花は疲れ切った様子で眠りこみ、顔色もひどく悪い。
 そうして気づく。あれほど苛まれていた身体の痛みが嘘のように楽になっている。
「まさか……」
 思わず声に出してつぶやき、伊織は悟った。天女の末裔(まつえい)である桜花は自分の持つ治癒の力を、限界ぎりぎりまで使ったのだ。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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