第83話 海と陸

文字数 697文字

「殿は武勲をたてようなどとは考えておられまい。われわれの勝利とは、何があっても殿を守り抜き、無事に生きて帰ることだ」
 月明かりの下、伊織は感心したまなざしを向けた。同じように学問をしてきたはずなのだが、思慮深さでは、やはり到底及ばない。
 しばらく言葉が途切れると、伊織はふっと桜花を想った。
 冷たい夜気にさらされていると、出発前夜に寄り添って眠ったぬくもりが甦ってくる。
 今頃、桜花はどうしているだろう。
 もう眠りについただろうか。
 伊織は再び夜空を見上げた。頭上の降るような星たちを、桜花にも見せてやりたかった。

 翌朝は海上に濃い霧がたちこめていた。
「もうじき羅紗の港に着きますぞ」
 海図を見ながら兼光は教えてくれたが、この霧では全く視界がきかない。
 やがて少しずつ霧が晴れてくると、前方に陸地が見えた。
 見えたと思ったとたん、緑の木々に彩られた半島がみるみるうちに近づいてくる。
 隼人は甲板から身を乗り出し、羅紗の港・麗江を眺め続けた。
 気候や風土は倭国とほぼ同じように思えるが、建物の造りが大きく違っていた。
 自国の木造建築に対し、こちらの建物の多くが黄土色の煉瓦を積み上げて造られている。
 船が港に入っていくと、よりはっきりと周囲の様子が見て取れた。
 蘇芳が率いる中央軍はすでに上陸しており、港には戦闘の痕跡が残されていた。
 いくつもの建物が破壊されたままになっており、現地の人間らしき姿はない。住民たちは皆、異国の軍勢を恐れて逃げ出してしまったのだろう。




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登場人物紹介

九条隼人(くじょうはやと)


若き聡明な草薙の領主。大切なものを守るため、心ならずも異国との戦に身を投じる。

「鬼哭く里の純恋歌」の人物イラストとイメージが少し異なっています。優しいだけではない、乱世に生きる武人としての姿を見てあげてください。

藤音(ふじね)


隼人の正室。人質同然の政略結婚であったが、彼の誠実な優しさにふれ、心から愛しあうようになる。

夫の留守を守り、自分にできる最善を尽くす。

天宮桜花(あまみやおうか)


九条家に仕える巫女。天女の末裔と言われ、破魔と癒しの力を持つ優しい少女。舞の名手。

幼馴染の伊織と祝言を挙げる予定だが、後任探しが難航し、巫女の座を降りられずにいる。

桐生伊織(きりゅういおり)


桜花の婚約者。婚礼の準備がなかなか進まないのが悩みの種。

武芸に秀で、隼人の護衛として戦に赴く。

柊蘇芳(ひいらぎすおう)


隼人とはいとこだが、彼を疎んじている。美貌の武将。

帝の甥で強大な権力を持ち、その野心を異国への出兵に向ける。

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の長。戦の渦中で隼人の運命に大きくかかわっていく。

白瑛(はくえい)


王都での残党狩りの時、隼人がわざと見逃した少年。実はその素性は……。

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