7-3. 失望と、デイミオンの抱擁 ②
文字数 3,277文字
暗い、どこかの淵 にいる。
「私と一緒に行くかい?」
聞こえてくるのは、養い親の声だった。年を取ってすこししわがれて、深みのある声だ。
自分は、どこにいるのだろう?
「老いも病も、苦しみもない、とこしえの春の国だよ。おまえにふさわしい王国だ」
いつの会話なのか、リアナは思い出せない。
それで、首をかしげたまま聞いた。
「そんなにいいところなら、おばさんやアミも一緒に行くよね? ケヴァン……は、行きたがるかわからないけど。ロッタとハニの子どもたちも行く? でも、里の人が減ると、里長 が困らない?」
「いいや、リアナ、行くのはおまえだけだ。選ばれたのはおまえ一人なんだ」
イニはやさしく首を振った。
「メナおばさんやアミは行かないの?」
「かれらは人間だ。おなじ時を一緒に過ごすことはできないのだよ。連れていくと、お互いに苦しむだけだ」
「
「どうして一緒の場所に行けないの? たとえ寿命に天と地の差があっても、人間と竜族が愛しあうことには意味があるって、イニそう言ってたじゃない」
秋に熟 すマルベリーのような色の瞳が、じっと見た。
「おばさんたちと一緒にいたいかい?」
その言葉に、リアナは眉をひそめる。
「今は同じ場所で暮らしているけど、いつまでもずっと一緒にはいないわ。あたりまえでしょ?」
別にメナやアミが大好きなわけではない。ライダーになるために、いずれ王都に出ることだって考えているのだ。だからイニの言うことは当たっていないと思った。
「でも、自分だけ素敵な場所に行って、家族は置いてけぼりっていうのは、それとは全然ちがうよ。でしょ?」
その言葉を聞いたイニの顔が、まるで湖に映ったかりそめの姿のようにぶれはじめ――しだいに見えなくなった。
「イニ!」
「おまえは、いずれ
「イニ、待って!」
そこで、目が覚めた。
♢♦♢
風向きが変わりつつあった。西に向かって吹いていたのが、かなり南寄りになっている。リアナはハダルクになかば抱きかかえられるようにして、門塔のうえから煙を確認した。水の中に長時間いたあとのように、立っているのがやっとなほど体力を失っていた。ひどく頭が痛む。今夜はもう、飛竜には乗れそうになかった。
「このままでは外壁が燃え落ちてしまうわ」
割れるように痛む眉間をおさえる。「古竜とライダーは何をしているの? あれだけの数がいて?」
「今回はスピード重視で編成したので、こちらの黒竜はパワー不足なようです。門壁周辺の消火はアーダル級 の黒竜でないと難しいでしょう」
「どうにかならないの? メドロート公は……」
「山方面に広がった火は、閣下とシーリアの力で消せたのだと思いますが……門壁には警備や見張りの兵が多くいますから。
……空気を遮 る術はもっともはやく消火ができるが、その場にいるヒトが呼吸できなくなってしまう。たとえごく少人数であっても、あるいは単に、敵であってもです」
ハダルクは腕のなかの王太子を抱えなおした。リアナはもはや立っているのも難しくなりつつある。彼女の意識を保つために、説明しつづけた。「――竜の力は、ヒトを害することには使えない。竜術の大原則です。例外は――」
一瞬、言葉が途切れる。竜騎手が目の上に庇 をつくり、息をのんだ。
「例外は、黒竜の力――デイミオン卿 !」
(そんなはずがないわ)
薄れかけている意識のなかで、リアナは思った。(アーダルは大きすぎる。こんなに早く、ここに到着するはずがない)
「リアナ様! デイミオン卿です!」
ハダルクの声に歓喜がにじんだ。「なんという救 けだ! デイミオン卿が到着しました! 見えますか!? リアナ様! ……ああ、火が消えていく!
わき上がる歓声が遠く聞こえる。なんとか身体を起こして、消火の具合を確認したいが、それもできない。ハダルクの腕のなかで息を整えながら、彼が嬉しそうに報告してくれるのを聴きながら、夜明けはまだなのか、それとも死にかけていて目の前が暗いのだろうかと考えていた。
――イニは、自分を置いていったのだ。
いまになって、そんなことを思い出した自分は間抜けだわ、と思った。「とこしえの春の国」などとおとぎ話めいたことを言っていたから、記憶に残らなかったのかもしれない。あるいは、養い親に捨てられたことを思い出したくなかったのか。
――いつか、帰ってきてくれると思ってたのに。
すこしの間、ほんとうに意識を失っていたらしい。
どれくらいか経って、レーデルルの鳴き声でリアナは目を覚ました。仔竜は、主人の肩からぴょんと跳びおり、ハダルクの腕を中継地点にしてから、地面へと降りたった。
「ルル」
仔竜の動きにつられるようにして立ち、目をあげると、デイミオンがそこにいた。
こんなにも早くケイエに着いていること。アーダルがいないこと。
それなのに、火が消えていること。
その理由がわかりそうな気がするのに、疲れきった頭ではもうなにも考えつかなかった。
(……この速さ、たぶん、飛竜を駆ってきた……アーダルはいない……もしかして、
(そんなのは怪物じみているわよ、デイミオン)
ルルが喜んで彼の足元にまとわりつこうとするが、男はそれを気にもとめずに近づいてくる。
「待っていてと言ったのに」リアナはかすれ声でささやいた。「ほんとうにせっかちね」
彼を安心させたかったが、うまく笑えたのかどうかわからなかった。
デイミオンは笑っていなかった。
長い脚で大股に近づき、黙ってリアナを抱きしめた。あまりに背が高く、あまりにきつく抱きしめるので、彼女の足は地面からほとんど浮いていた。頭のてっぺんに彼の息を感じ、同時に、彼の心音を感じた。同じひとつの心臓であるかのように打っている、彼の鼓動が。
「リアナ」低く、熱っぽい声がそう呼んだ。「おまえの声がずっと聞こえていた」
「いまは呼んでいないわ」リアナは涙声で答えた。
「ずっと呼んでない。あなたは、タマリスにいないといけなかったのに」
「来ずにはいられなかった。……もう耐えられないと、おまえが叫んでいたから」
こんなときに、いつもの皮肉な調子じゃないのはずるい。
「わたしが……」
リアナは言いかけて、首を振った。そんなことは言っていない、と言いたかった。ただ、子どもたちが連れ去られたのも、兵士がデーグルモールに変容させられようとして死んだのも、ケイエが燃え落ちかけたのも、全部自分のせいだと言いたかった。
自分がライダーとして未熟で、指揮官として無能で、とうてい王にはなりえないただの田舎の小娘だからだと言いたかった。
「ううぅ……」
でも、なにも言葉にならなかった。
そしてはじめて、デイミオンの言葉が本当だとわかった。
子どもたちを助けるはずだったのに。
里は間に合わなかったけれど、ケイエは救えるはずだったのに。
その考えはいまになって、雪崩 のように襲ってきた。
鼻の奥がツンとして、気づいたら涙が止まらなくなっていた。目が溶けてしまいそうなほど潤 んで、自分の手で、熱く濡れた頬をぬぐおうとする。デイミオンは背をかがめて腕をつかみ、自分の指でリアナの涙をぬぐった。
「なぜ助けを呼ばなかった? おまえが苦しんでいるときにそばに行くこともできないなら、〈血の呼 ばい〉など何の意味もない」
あの、竜車襲撃の夜と同じだった。彼が自分のために怒っているのが、どうしてかひどく嬉しい。リアナは何も言わずに目を閉じて、しびれるような甘い痛みを味わった。それに続いて、もうどうしようもないくらいの嗚咽 も。しゃくりあげはじめた背中にまわされた腕が、いっそう強くなる。
「もう離れない」
また、ひとつの籠 になってしまった。オンブリアにたった二つしかない貴重な卵、王になるべき二つの卵が。
それでもいい、と涙の海のなかでリアナは思った。もう離れない。
「私と一緒に行くかい?」
聞こえてくるのは、養い親の声だった。年を取ってすこししわがれて、深みのある声だ。
自分は、どこにいるのだろう?
「老いも病も、苦しみもない、とこしえの春の国だよ。おまえにふさわしい王国だ」
いつの会話なのか、リアナは思い出せない。
それで、首をかしげたまま聞いた。
「そんなにいいところなら、おばさんやアミも一緒に行くよね? ケヴァン……は、行きたがるかわからないけど。ロッタとハニの子どもたちも行く? でも、里の人が減ると、
「いいや、リアナ、行くのはおまえだけだ。選ばれたのはおまえ一人なんだ」
イニはやさしく首を振った。
「メナおばさんやアミは行かないの?」
「かれらは人間だ。おなじ時を一緒に過ごすことはできないのだよ。連れていくと、お互いに苦しむだけだ」
「
どうして
?」リアナは問うた。「どうして一緒の場所に行けないの? たとえ寿命に天と地の差があっても、人間と竜族が愛しあうことには意味があるって、イニそう言ってたじゃない」
秋に
「おばさんたちと一緒にいたいかい?」
その言葉に、リアナは眉をひそめる。
「今は同じ場所で暮らしているけど、いつまでもずっと一緒にはいないわ。あたりまえでしょ?」
別にメナやアミが大好きなわけではない。ライダーになるために、いずれ王都に出ることだって考えているのだ。だからイニの言うことは当たっていないと思った。
「でも、自分だけ素敵な場所に行って、家族は置いてけぼりっていうのは、それとは全然ちがうよ。でしょ?」
その言葉を聞いたイニの顔が、まるで湖に映ったかりそめの姿のようにぶれはじめ――しだいに見えなくなった。
「イニ!」
「おまえは、いずれ
かれら
と一緒に行くことを選ぶのだろうね」「イニ、待って!」
そこで、目が覚めた。
♢♦♢
風向きが変わりつつあった。西に向かって吹いていたのが、かなり南寄りになっている。リアナはハダルクになかば抱きかかえられるようにして、門塔のうえから煙を確認した。水の中に長時間いたあとのように、立っているのがやっとなほど体力を失っていた。ひどく頭が痛む。今夜はもう、飛竜には乗れそうになかった。
「このままでは外壁が燃え落ちてしまうわ」
割れるように痛む眉間をおさえる。「古竜とライダーは何をしているの? あれだけの数がいて?」
「今回はスピード重視で編成したので、こちらの黒竜はパワー不足なようです。門壁周辺の消火はアーダル
「どうにかならないの? メドロート公は……」
「山方面に広がった火は、閣下とシーリアの力で消せたのだと思いますが……門壁には警備や見張りの兵が多くいますから。
……空気を
これも
なのか。めまいを抑えて毒づく。ハダルクは腕のなかの王太子を抱えなおした。リアナはもはや立っているのも難しくなりつつある。彼女の意識を保つために、説明しつづけた。「――竜の力は、ヒトを害することには使えない。竜術の大原則です。例外は――」
一瞬、言葉が途切れる。竜騎手が目の上に
「例外は、黒竜の力――デイミオン
(そんなはずがないわ)
薄れかけている意識のなかで、リアナは思った。(アーダルは大きすぎる。こんなに早く、ここに到着するはずがない)
「リアナ様! デイミオン卿です!」
ハダルクの声に歓喜がにじんだ。「なんという
私たちの竜が
!」わき上がる歓声が遠く聞こえる。なんとか身体を起こして、消火の具合を確認したいが、それもできない。ハダルクの腕のなかで息を整えながら、彼が嬉しそうに報告してくれるのを聴きながら、夜明けはまだなのか、それとも死にかけていて目の前が暗いのだろうかと考えていた。
――イニは、自分を置いていったのだ。
いまになって、そんなことを思い出した自分は間抜けだわ、と思った。「とこしえの春の国」などとおとぎ話めいたことを言っていたから、記憶に残らなかったのかもしれない。あるいは、養い親に捨てられたことを思い出したくなかったのか。
――いつか、帰ってきてくれると思ってたのに。
すこしの間、ほんとうに意識を失っていたらしい。
どれくらいか経って、レーデルルの鳴き声でリアナは目を覚ました。仔竜は、主人の肩からぴょんと跳びおり、ハダルクの腕を中継地点にしてから、地面へと降りたった。
「ルル」
仔竜の動きにつられるようにして立ち、目をあげると、デイミオンがそこにいた。
こんなにも早くケイエに着いていること。アーダルがいないこと。
それなのに、火が消えていること。
その理由がわかりそうな気がするのに、疲れきった頭ではもうなにも考えつかなかった。
(……この速さ、たぶん、飛竜を駆ってきた……アーダルはいない……もしかして、
ライダーとして、数頭の黒竜の力をまとめるような力がある
? ……まさかね)(そんなのは怪物じみているわよ、デイミオン)
ルルが喜んで彼の足元にまとわりつこうとするが、男はそれを気にもとめずに近づいてくる。
「待っていてと言ったのに」リアナはかすれ声でささやいた。「ほんとうにせっかちね」
彼を安心させたかったが、うまく笑えたのかどうかわからなかった。
デイミオンは笑っていなかった。
長い脚で大股に近づき、黙ってリアナを抱きしめた。あまりに背が高く、あまりにきつく抱きしめるので、彼女の足は地面からほとんど浮いていた。頭のてっぺんに彼の息を感じ、同時に、彼の心音を感じた。同じひとつの心臓であるかのように打っている、彼の鼓動が。
「リアナ」低く、熱っぽい声がそう呼んだ。「おまえの声がずっと聞こえていた」
「いまは呼んでいないわ」リアナは涙声で答えた。
「ずっと呼んでない。あなたは、タマリスにいないといけなかったのに」
「来ずにはいられなかった。……もう耐えられないと、おまえが叫んでいたから」
こんなときに、いつもの皮肉な調子じゃないのはずるい。
「わたしが……」
リアナは言いかけて、首を振った。そんなことは言っていない、と言いたかった。ただ、子どもたちが連れ去られたのも、兵士がデーグルモールに変容させられようとして死んだのも、ケイエが燃え落ちかけたのも、全部自分のせいだと言いたかった。
自分がライダーとして未熟で、指揮官として無能で、とうてい王にはなりえないただの田舎の小娘だからだと言いたかった。
「ううぅ……」
でも、なにも言葉にならなかった。
そしてはじめて、デイミオンの言葉が本当だとわかった。
もう耐えられない
。子どもたちを助けるはずだったのに。
里は間に合わなかったけれど、ケイエは救えるはずだったのに。
その考えはいまになって、
鼻の奥がツンとして、気づいたら涙が止まらなくなっていた。目が溶けてしまいそうなほど
「なぜ助けを呼ばなかった? おまえが苦しんでいるときにそばに行くこともできないなら、〈血の
あの、竜車襲撃の夜と同じだった。彼が自分のために怒っているのが、どうしてかひどく嬉しい。リアナは何も言わずに目を閉じて、しびれるような甘い痛みを味わった。それに続いて、もうどうしようもないくらいの
「もう離れない」
また、ひとつの
それでもいい、と涙の海のなかでリアナは思った。もう離れない。