3-2. 黒の王 ③
文字数 2,626文字
議会が終わると、デイミオンはファニーを伴って執務室へ戻った。
王の執務室は、リアナがいたときのままだった。大きなガラス窓とアルコーブ(壁面の一部を後退させてつくったくぼみ状の空間)のある、日当りの良い部屋だ。ファニーはそれを確認するようにぐるりと見まわした。そして、扉近くに控えている書記官に「僕と陛下の二人分のお茶を持ってきてくれるかな?」と抜け目なく声をかけた。これで、しばらく会話が記録されることはないわけだ。
「五公の件はひやひやしたね」
近衛が椅子を引こうとするのを断って、アルコーブに並べたクッションのひとつに腰を掛け、ファニーが言った。「ナイル卿が演技上手で、助かったよ」
五公会はファニーの領地継承を認めた。さらに、賛成三票で五公入りも認められた。身よりもない孤児の少年が一躍大領主に、という物珍しさは、デイミオンの電撃的な即位を打ち消すほどの勢いがあった。
五公入りに関しては、それほど異例というものでもない。黄の領主は長く政治的権力から遠ざけられてきたし、後ろ盾のないファニーの立場は五公のなかでもっとも新しく弱いものとなる。逆に言えば、どの大公たちからも害がなくてちょうどよいとみなされたのだろう。
デイミオンもどっかりと腰をおろした。
「その突拍子もない筋書きを考えた本人が、なにを言う? ……マリウスの領地とは、また奇策を講じたな。おまえたちが生まれたときには、やつはとうに歴史書から抹殺されていたと思ったが」
「んー」ファニーは細い首をかしげた。「僕を大神官にする方法として、リアナといろいろ考えていたんだよね。そのときは、こういう形で役に立つとは思っていなかったんだけど」後半はしんみりと言う。
「エンガス卿とはどういう取引をしたの?」
「おまえの五公就任にくわえて、リアナたちを追わず、フィルの罪も問わないことがこちらの条件。むこうは私の即位と、五公会での一票、それにいくつかの財政的特権」
デイミオンはすらすらと告げ、机の上の書類をあさって何かを書きつけた。貴族たちが彼の即位にそれほど雑音を立てなかったのは、王であることがこれほどしっくり映る男が、ついに王になったというだけだからなのかもしれない、とファニーは思った。
もちろん複雑な思いがある。そこで、「リアナを王のままにはしておけなかったの?」と尋ねた。
王となったばかりの青年は即答した。
「療養という名目だけでは、安全面を考えると難しいな。……もともと、エンガスは彼女の即位に否定的だった。リアナと私の組み合わせは権力に偏りが大きすぎる」
「ふうん? ……まあ、王と王太子が、かたや気象を操る白竜のライダー、そしてもう片方はオンブリア最大の軍事兵器、さらにその二人が恋人とあってはね」
冷やかすつもりで言ったのに、デイミオンはファニーをちらりと見て「夫婦だ」と訂正してきた。
「わっ」ファニーは思わず腰を浮かす。「ほんとに?」
「ああ。
「それはそれは……おめでとう」なんだか毒気が抜かれてしまい、そう返すしかない。「あの、いちおう言っておくけど、彼女まだ結婚できないよ……」
竜族の子女の結婚可能年齢は一般に成人の儀の翌年、つまり十七歳なので、エピファニーは無粋を承知で指摘しておいた。あと数か月のことではあるが、貴族社会で眉をひそめられる話には違いないので。
「非常事態だ。やむを得まい」デイミオンは決然と言った。
「ええー……」
タマリス中をゴシップの渦に巻き込んだ、王と王太子の繁殖期 外恋愛は、ではなんだったというのだ。二人に振りまわされて涙を飲んだ男女が、数名いたと思うのだが。
と、衛兵が扉を開けて、書記官が盆をがちゃがちゃさせながら戻ってきた。不慣れなことを申しつけられた不満がありありと顔に出ている。「お、お茶をお持ちいたしました、陛下、閣下」
「あっ」ファニーがわざとらしく声を出す。
「ねぇこれレモンが入ってない? レモンの薄切り。僕、レモン嫌いなんだよね」
「ああ、これは大変な失礼を、閣下」デイミオンもわざとらしく言う。書記官に向かって、「閣下は桃と苺の香りがついた茶しかお召しにならんのだ。悪いが、別のものをもってきてくれ」
そう申しつけられた書記官の失望に満ちた顔は、見ものと言えただろう。
「王でないほうが安全なら、完全に退位させたほうがよかったんじゃない?」書記官が足音に怒りをにじませて出ていくと、ファニーは話を戻した。
「まだ〈呼 ばい〉は残ってるんでしょ? 追跡を避けるなら、念話も使えないし……お互いにつらいんじゃない?」
デイミオンは水差しから直接水を飲み、ふーっと大きく息をついた。そして言う。「たとえ絶え間ない苦しみだけを分かち合うことになっても、〈呼 ばい〉の絆を断つことはしない」
「ふうん……」
ファニーは、嫌いだと言ったレモン入りの茶にふーふーと息を吹きかけて冷まし、平然と口をつけた。
青年は頭をのけぞらせて顔を手で覆い、天井を仰いだ。
「……おまえが言った、
「良いことだよ。希望はある」ファニーは力をこめた。
デイミオンはそっと息をつく。「……そうだな」
ファニーはティーカップをアルコーブの端に置き、懐から古びた革の手帳を取りだした。真鍮の留め金が壊れてはずれ、紙は日に焼けて端がすりきれていた。中を開くと図も文もびっしり書き込まれていて、インクが黒々した箇所もあれば、かろうじて読める程度に色あせてしまった箇所もある。
「マリウス手稿 」呟いて、少年は考えこむ表情になった。
「先の大戦時、ひそかに行われていたデーグルモールたちへの生体実験……その記録がここにある。おかげで、
「ああ。フィルのやつ、そんなものを探していたとはな。ひとこと言ってくれれば……」
「中を見た?」
「ひと通り」
「なにか気づいたことは?」
「いや……」デイミオンはためらった。「こういう方面には詳しくないんだ」
「医術方面の知識がなくても、わかることはあるよ」ファニーは手帳をぱらぱらとめくった。「たとえば、この手帳のなかには一度も、『デーグルモール』という言葉は出てこない」
デイミオンは宙を見て、思い返す様子になった。しばらくして「……たしかに」と言う。
「戦前は『半死者 』と呼ばれることが多かったな。だが、それが?」
王の執務室は、リアナがいたときのままだった。大きなガラス窓とアルコーブ(壁面の一部を後退させてつくったくぼみ状の空間)のある、日当りの良い部屋だ。ファニーはそれを確認するようにぐるりと見まわした。そして、扉近くに控えている書記官に「僕と陛下の二人分のお茶を持ってきてくれるかな?」と抜け目なく声をかけた。これで、しばらく会話が記録されることはないわけだ。
「五公の件はひやひやしたね」
近衛が椅子を引こうとするのを断って、アルコーブに並べたクッションのひとつに腰を掛け、ファニーが言った。「ナイル卿が演技上手で、助かったよ」
五公会はファニーの領地継承を認めた。さらに、賛成三票で五公入りも認められた。身よりもない孤児の少年が一躍大領主に、という物珍しさは、デイミオンの電撃的な即位を打ち消すほどの勢いがあった。
五公入りに関しては、それほど異例というものでもない。黄の領主は長く政治的権力から遠ざけられてきたし、後ろ盾のないファニーの立場は五公のなかでもっとも新しく弱いものとなる。逆に言えば、どの大公たちからも害がなくてちょうどよいとみなされたのだろう。
デイミオンもどっかりと腰をおろした。
「その突拍子もない筋書きを考えた本人が、なにを言う? ……マリウスの領地とは、また奇策を講じたな。おまえたちが生まれたときには、やつはとうに歴史書から抹殺されていたと思ったが」
「んー」ファニーは細い首をかしげた。「僕を大神官にする方法として、リアナといろいろ考えていたんだよね。そのときは、こういう形で役に立つとは思っていなかったんだけど」後半はしんみりと言う。
「エンガス卿とはどういう取引をしたの?」
「おまえの五公就任にくわえて、リアナたちを追わず、フィルの罪も問わないことがこちらの条件。むこうは私の即位と、五公会での一票、それにいくつかの財政的特権」
デイミオンはすらすらと告げ、机の上の書類をあさって何かを書きつけた。貴族たちが彼の即位にそれほど雑音を立てなかったのは、王であることがこれほどしっくり映る男が、ついに王になったというだけだからなのかもしれない、とファニーは思った。
もちろん複雑な思いがある。そこで、「リアナを王のままにはしておけなかったの?」と尋ねた。
王となったばかりの青年は即答した。
「療養という名目だけでは、安全面を考えると難しいな。……もともと、エンガスは彼女の即位に否定的だった。リアナと私の組み合わせは権力に偏りが大きすぎる」
「ふうん? ……まあ、王と王太子が、かたや気象を操る白竜のライダー、そしてもう片方はオンブリア最大の軍事兵器、さらにその二人が恋人とあってはね」
冷やかすつもりで言ったのに、デイミオンはファニーをちらりと見て「夫婦だ」と訂正してきた。
「わっ」ファニーは思わず腰を浮かす。「ほんとに?」
「ああ。
つがい
の誓いを立てた」「それはそれは……おめでとう」なんだか毒気が抜かれてしまい、そう返すしかない。「あの、いちおう言っておくけど、彼女まだ結婚できないよ……」
竜族の子女の結婚可能年齢は一般に成人の儀の翌年、つまり十七歳なので、エピファニーは無粋を承知で指摘しておいた。あと数か月のことではあるが、貴族社会で眉をひそめられる話には違いないので。
「非常事態だ。やむを得まい」デイミオンは決然と言った。
「ええー……」
タマリス中をゴシップの渦に巻き込んだ、王と王太子の
と、衛兵が扉を開けて、書記官が盆をがちゃがちゃさせながら戻ってきた。不慣れなことを申しつけられた不満がありありと顔に出ている。「お、お茶をお持ちいたしました、陛下、閣下」
「あっ」ファニーがわざとらしく声を出す。
「ねぇこれレモンが入ってない? レモンの薄切り。僕、レモン嫌いなんだよね」
「ああ、これは大変な失礼を、閣下」デイミオンもわざとらしく言う。書記官に向かって、「閣下は桃と苺の香りがついた茶しかお召しにならんのだ。悪いが、別のものをもってきてくれ」
そう申しつけられた書記官の失望に満ちた顔は、見ものと言えただろう。
「王でないほうが安全なら、完全に退位させたほうがよかったんじゃない?」書記官が足音に怒りをにじませて出ていくと、ファニーは話を戻した。
「まだ〈
デイミオンは水差しから直接水を飲み、ふーっと大きく息をついた。そして言う。「たとえ絶え間ない苦しみだけを分かち合うことになっても、〈
「ふうん……」
ファニーは、嫌いだと言ったレモン入りの茶にふーふーと息を吹きかけて冷まし、平然と口をつけた。
青年は頭をのけぞらせて顔を手で覆い、天井を仰いだ。
「……おまえが言った、
一時的に彼女の症状を和らげる
方法だが……効果があった。良いことか悪いことかわからないが」「良いことだよ。希望はある」ファニーは力をこめた。
デイミオンはそっと息をつく。「……そうだな」
ファニーはティーカップをアルコーブの端に置き、懐から古びた革の手帳を取りだした。真鍮の留め金が壊れてはずれ、紙は日に焼けて端がすりきれていた。中を開くと図も文もびっしり書き込まれていて、インクが黒々した箇所もあれば、かろうじて読める程度に色あせてしまった箇所もある。
「マリウス
「先の大戦時、ひそかに行われていたデーグルモールたちへの生体実験……その記録がここにある。おかげで、
症状
を和らげる方法もわかった。感謝しなきゃね」「ああ。フィルのやつ、そんなものを探していたとはな。ひとこと言ってくれれば……」
「中を見た?」
「ひと通り」
「なにか気づいたことは?」
「いや……」デイミオンはためらった。「こういう方面には詳しくないんだ」
「医術方面の知識がなくても、わかることはあるよ」ファニーは手帳をぱらぱらとめくった。「たとえば、この手帳のなかには一度も、『デーグルモール』という言葉は出てこない」
デイミオンは宙を見て、思い返す様子になった。しばらくして「……たしかに」と言う。
「戦前は『