5-6. エピファニー ②
文字数 2,139文字
しばらく待ったような気がしたが、実際にはほんの数分のことかもしれない。ふいに、衣擦れのようなぱさっという音がした。振り向く間もなく、ぱさっ、ぱさっ、と音は増え、あっという間に部屋を満たすほど重なり合った。
(羽ばたきだ)リアナは思った。(なんの――)
それは一瞬にしてあらわれた。色の洪水が目の前に迫ってくる。思わず目を閉じ、あわててまた開く。
(――蝶!?)
赤、黄、黒に青の縞、金と紫――
現実にはありえないほど鮮やかな色をした蝶の群れが、風のようにリアナを襲った。
害はないのか、と思った瞬間、ちくりと刺すような感覚があった。「何――」
一匹の蝶が手の甲に止まり、口吻を刺していた。払いのけようとしたときにはすでに飛びたっている。
石の台のうえにひらりと降り立つ。
一度、二度、ゆっくりと羽ばたく。緑青の色だ。
羽ばたきをやめると、乾いた土のように、ぼろりと崩れ落ちる。
石の台の上に、光る虫のようなものがいくつも這っている。
視界が暗転した。
「どう――」
一瞬、自分の目が見えなくなったのかと思った。だが、目を閉じるよりも暗い。真昼から急に夜になったかのような、現実世界にはあり得ない暗さに包まれる。完全な闇ではないことがわかったのは、石の台のうえの虫が光り続けているからだった。細長くくねった記号のような、青白く光る虫。
固く張った弓のような、ピン、という音がいくつか漏れ、それを合図にしたかのように、今度は部屋全体がうねった虫に包まれた。
(虫――いや、ちがう?)
上から下へ、滝のように流れ落ちているのは虫ではない――文字だ。リアナの見たことのない、記号のような謎の文字。見たこともない、明るい緑色に燃える文字が、はげしい雨のように流れ落ちていく。
(もっとよく見て――)
近寄ろうとしたところで、始まったときと同じく唐突に、
そして、見知らぬ呪文のようなささめきが聞こえたかと思うと、門は突然開いた。
♢♦♢
「……で、目の前の壁が左右に割れて、その奥の廟が見えたの」
「門のなかに?」
「うーん、門とは違うかな。背が低い、黒い石が切り株みたいに並んでて。夜光るキノコみたいにぼんやり光っててね」
「ふーん……」
少年は華奢なあごに手をやって、なにやら考え込んでいる。「興味深い」
話がひと段落すると、ファニーは二人と一匹を、史料棚の合間にある細い階段へと誘った。高いところにある史料を取るための梯子のように見えたが、昇ってみると中二階があり、清掃用の道具入れや、史料の補修用の布切れなどがきれいに整理されて置かれていた。言ってみれば物置きだ。小柄なリアナとファニーにはちょうどいい秘密基地のようなサイズだが、成人男性の体格であるフィルは頭がつかえそうになっている。
「下働きをしていると、休憩するのにちょうどいい場所には目ざとくなってね。ここはちょっとした個人授業にはぴったりの場所だと思うよ。必要な資料はすぐに下から持ってこられるし」言いながら、古布を置いて椅子のように見せかけている木箱の蓋をあけた。「お菓子もため込んであるし」
中をのぞいたリアナは笑った。
二人はお菓子を食べながら、ファニーが「授業」の準備をするのを手伝った。フィルはさりげなく毒見をして、「これ、おいしいですよ」と言ってリアナに渡した。
「でも、驚いたよ。君が『個人授業をしてほしい』、なんて」
ファニーが言う。「君には専属の学者がついているはずだけど」
「そうなんだけど……なんだか儀礼的な話が多くて、ぴんとこなくて」
「ふむ。必要なのは……」少年は指折り数える。
「王権について、それに王と諸侯の役割について、先の戦争について、南北格差について、〈ハートレス〉のこと、竜のこと……だったっけ。楽しそうだけど、ずいぶん長い個人授業になりそうだ」
ファニーは部屋の片隅に丸めて立ててあった大判の紙を広げた。
「個人授業に必須のものといえば、地図でしょう。今日はまず地図を作ろう」
フィルが教本を持ち、リアナがお手本を数倍に拡大する形で、大陸や山脈、川を描き込んでいく。
「オンブリアの地形ってレース編みみたい、描くの大変だね」
「そうだね、そのレース編みの穴になった部分は湖や川だ。オンブリアのとくに北部は寒冷湿潤な気候、主たる作物は小麦だけど、南部に比べると育ちにくい。……南部は温暖で、川沿いではどんな作物もよく育つけど、南端から東部を人間の国ふたつと接している。国の名前は?」
「アエディクラとイーゼンテルレ」
「そう。イーゼンテルレのほうが小さいね? こちらは公国で、宗主国はアエディクラになる。もともとは、ケイエのあたりまでがイティージエンという巨大な人間の帝国だったんだよ。先の大戦で竜王エリサ、つまり君の母上が帝国を打ち破り、国は分割されてオンブリアに吸収されたり、それぞれ小さな王国になった……次はそれぞれの首都と王城を描き込んでいくよ」
ファニーの教え方はわかりやすく、質問を挟んでの小一時間ほどがあっという間に過ぎた。もっとも、サラートの教え方が悪いというのも失礼だろう。辺境の里で育ったリアナには、王国に関する基礎的な知識すら抜け落ちている。まずはそこを埋めるのが先だった。
(羽ばたきだ)リアナは思った。(なんの――)
それは一瞬にしてあらわれた。色の洪水が目の前に迫ってくる。思わず目を閉じ、あわててまた開く。
(――蝶!?)
赤、黄、黒に青の縞、金と紫――
現実にはありえないほど鮮やかな色をした蝶の群れが、風のようにリアナを襲った。
害はないのか、と思った瞬間、ちくりと刺すような感覚があった。「何――」
一匹の蝶が手の甲に止まり、口吻を刺していた。払いのけようとしたときにはすでに飛びたっている。
石の台のうえにひらりと降り立つ。
一度、二度、ゆっくりと羽ばたく。緑青の色だ。
羽ばたきをやめると、乾いた土のように、ぼろりと崩れ落ちる。
石の台の上に、光る虫のようなものがいくつも這っている。
視界が暗転した。
「どう――」
一瞬、自分の目が見えなくなったのかと思った。だが、目を閉じるよりも暗い。真昼から急に夜になったかのような、現実世界にはあり得ない暗さに包まれる。完全な闇ではないことがわかったのは、石の台のうえの虫が光り続けているからだった。細長くくねった記号のような、青白く光る虫。
固く張った弓のような、ピン、という音がいくつか漏れ、それを合図にしたかのように、今度は部屋全体がうねった虫に包まれた。
(虫――いや、ちがう?)
上から下へ、滝のように流れ落ちているのは虫ではない――文字だ。リアナの見たことのない、記号のような謎の文字。見たこともない、明るい緑色に燃える文字が、はげしい雨のように流れ落ちていく。
(もっとよく見て――)
近寄ろうとしたところで、始まったときと同じく唐突に、
文字の雨
は止んだ。そして、見知らぬ呪文のようなささめきが聞こえたかと思うと、門は突然開いた。
♢♦♢
「……で、目の前の壁が左右に割れて、その奥の廟が見えたの」
「門のなかに?」
「うーん、門とは違うかな。背が低い、黒い石が切り株みたいに並んでて。夜光るキノコみたいにぼんやり光っててね」
「ふーん……」
少年は華奢なあごに手をやって、なにやら考え込んでいる。「興味深い」
話がひと段落すると、ファニーは二人と一匹を、史料棚の合間にある細い階段へと誘った。高いところにある史料を取るための梯子のように見えたが、昇ってみると中二階があり、清掃用の道具入れや、史料の補修用の布切れなどがきれいに整理されて置かれていた。言ってみれば物置きだ。小柄なリアナとファニーにはちょうどいい秘密基地のようなサイズだが、成人男性の体格であるフィルは頭がつかえそうになっている。
「下働きをしていると、休憩するのにちょうどいい場所には目ざとくなってね。ここはちょっとした個人授業にはぴったりの場所だと思うよ。必要な資料はすぐに下から持ってこられるし」言いながら、古布を置いて椅子のように見せかけている木箱の蓋をあけた。「お菓子もため込んであるし」
中をのぞいたリアナは笑った。
二人はお菓子を食べながら、ファニーが「授業」の準備をするのを手伝った。フィルはさりげなく毒見をして、「これ、おいしいですよ」と言ってリアナに渡した。
「でも、驚いたよ。君が『個人授業をしてほしい』、なんて」
ファニーが言う。「君には専属の学者がついているはずだけど」
「そうなんだけど……なんだか儀礼的な話が多くて、ぴんとこなくて」
「ふむ。必要なのは……」少年は指折り数える。
「王権について、それに王と諸侯の役割について、先の戦争について、南北格差について、〈ハートレス〉のこと、竜のこと……だったっけ。楽しそうだけど、ずいぶん長い個人授業になりそうだ」
ファニーは部屋の片隅に丸めて立ててあった大判の紙を広げた。
「個人授業に必須のものといえば、地図でしょう。今日はまず地図を作ろう」
フィルが教本を持ち、リアナがお手本を数倍に拡大する形で、大陸や山脈、川を描き込んでいく。
「オンブリアの地形ってレース編みみたい、描くの大変だね」
「そうだね、そのレース編みの穴になった部分は湖や川だ。オンブリアのとくに北部は寒冷湿潤な気候、主たる作物は小麦だけど、南部に比べると育ちにくい。……南部は温暖で、川沿いではどんな作物もよく育つけど、南端から東部を人間の国ふたつと接している。国の名前は?」
「アエディクラとイーゼンテルレ」
「そう。イーゼンテルレのほうが小さいね? こちらは公国で、宗主国はアエディクラになる。もともとは、ケイエのあたりまでがイティージエンという巨大な人間の帝国だったんだよ。先の大戦で竜王エリサ、つまり君の母上が帝国を打ち破り、国は分割されてオンブリアに吸収されたり、それぞれ小さな王国になった……次はそれぞれの首都と王城を描き込んでいくよ」
ファニーの教え方はわかりやすく、質問を挟んでの小一時間ほどがあっという間に過ぎた。もっとも、サラートの教え方が悪いというのも失礼だろう。辺境の里で育ったリアナには、王国に関する基礎的な知識すら抜け落ちている。まずはそこを埋めるのが先だった。