7-2. 喪失 ①
文字数 1,848文字
翌朝、かつて〈黄金賢者〉と呼ばれた男は東に面したテラスで空を眺めていた。
降っているというほどではないが、思い出したように雪片が落ちてくる。彼がクローナンの研究室に出入りするのは久しぶりのことだった。手術台に眠る少女の、うっすらと赤みの差した頬や、髪を梳いたときに指に触れた頭皮の温かさを思い返していると、フィルバート・スターバウがやってきた。
「伝令竜 は送ったのか?」
そう問われて、軽くうなずく。「昨晩、タマリスへ向けて送ったよ。『竜王リアナは治療のため〈竜の心臓〉を摘出される』」
フィルバートは答えに満足したようだ。紅茶の入ったカップを渡して去ろうとしたところを、「待て」と引きとめる。
「手術室には入れないのに、なにをするつもりだ?」
「扉の前で見張りに立つだけだ」フィルバートはそっけなく答えた。そのかたくなな様子を、マリウスは内心で面白く思った。戦時中の彼はいわば抜き身の剣で、有能な指揮官で、英雄だった。戦後は柔和な笑顔で過去の傷を隠し、賞賛も批判も水のようにかわして、何ごとにもとらわれずに生きているように見えた。だが今は、まるで迷子になった子どものようだ――もちろん、そんなかわいらしい男でないことは重々承知しているのだが。
「私と一緒に来なさい」紅茶の湯気のなかに顎先をうずめて、妖精王は言った。「おまえには、ほかにやらねばならないことがある」
なんの話かわかったのだろう、〈竜殺し 〉は苦々しく顔をそむけた。「今はイヤだ」
「おまえのためだけに言っているわけではない。リアナの手術が成功したら、おまえにはやってもらわねばならない役割がある。そのために、薬物の影響を抜いておく必要があるのだ」
「やってもらわねばならない役割?」
妖精王はしたり顔で微笑んだ。何を言えばこの青年が動くのか、わかりすぎるほどだ。
「彼女のために死ぬ覚悟があるのだろう? ひとつしかない心臓でも差し出すことができると?」
「ああ」
「では、私の言う通りに治療をこなすことだ。まずは――」妖精王は言いかけて、はっと身を固くした。よくなじんだ〈呼 ばい〉の声が、彼の名前を呼んでいる。
〔マリウス〕
「どうした?」フィルバートがけげんな顔をした。
〔来てくれ、マリウス――〕
「クローナンが呼んでいる」
二人は慌てて手術室に駆けこんだ。
妖精王の目に真っ先に飛びこんできたのは、白竜レーデルルの姿だった。部屋いっぱいに白い羽を伸ばすようにして、ばたばたとせわしなく旋回している。狭い場所ではないが、古竜が飛べるようなスペースはないので、動くごとに天井や壁に身体をぶつけているのが異様だった。
「レーデルル!」フィルバートが叫んだ。「いったいどうしたんだ。クローナン王!」
「私もなにがどうだか――」クローナンは青い術着姿でふりかえった。いくらかふらついている。まだ術前であったらしく、リアナは寝台の上で眠っていて、術具も出されていなかった。
「マリウス、白竜を落ち着かせてくれ。〈呼 ばい〉が強すぎる……」
〔警告! 警告!〕
レーデルルが巨大な〈呼 ばい〉を放った。〔警告! 警告! 警告!〕
そのあまりにも強く大きな声に、マリウスも思わず顔をしかめ、後ずさった。自分よりも竜の忠誠度が高いクローナンは、より強く揺さぶられることになる。ふらつくのも当然だった。
「何と言っているんだ?」
竜の声が聞こえないフィルが、いぶかしげに尋ねる。
「〔警告! 警告!〕」マリウスは通訳してやった。「そう言っている。〔警告! 警告! 警告!〕。……いったい、どうしたというんだ?……」
そして、古竜のほうへ近づきかけると、はっと動きを止めた。「
自分の竜を失ったときの光景を、マリウスはまざまざと思いだした。
「あのときもそうだった。エリサ王に、支離滅裂な警告を発しはじめた。強い警告の〈呼 ばい〉が……」
「そうだったのか?」フィルバートはいぶかしむ様子だった。「でも、俺には聞こえなかった。いまも聞こえない。俺は〈ハートレス〉だから」
崩れ落ちる柱、巨体の黄竜、割れ鐘のように鳴り響く警告の声……忘れようと思っても忘れられない恐ろしい光景だった。それ以前にもイノセンティオンは辻褄の合わない、それでいて悪夢じみた予言をくり返していて、それが理由でマリウス自身も『狂った竜の黄金賢者』などと揶揄 されていた。だがその日の警告はそれまでのものとはまったく違っていた――
〔警告! 警告!〕
自分の竜の声と、目の前の白竜の声とが重なった。
降っているというほどではないが、思い出したように雪片が落ちてくる。彼がクローナンの研究室に出入りするのは久しぶりのことだった。手術台に眠る少女の、うっすらと赤みの差した頬や、髪を梳いたときに指に触れた頭皮の温かさを思い返していると、フィルバート・スターバウがやってきた。
「
そう問われて、軽くうなずく。「昨晩、タマリスへ向けて送ったよ。『竜王リアナは治療のため〈竜の心臓〉を摘出される』」
フィルバートは答えに満足したようだ。紅茶の入ったカップを渡して去ろうとしたところを、「待て」と引きとめる。
「手術室には入れないのに、なにをするつもりだ?」
「扉の前で見張りに立つだけだ」フィルバートはそっけなく答えた。そのかたくなな様子を、マリウスは内心で面白く思った。戦時中の彼はいわば抜き身の剣で、有能な指揮官で、英雄だった。戦後は柔和な笑顔で過去の傷を隠し、賞賛も批判も水のようにかわして、何ごとにもとらわれずに生きているように見えた。だが今は、まるで迷子になった子どものようだ――もちろん、そんなかわいらしい男でないことは重々承知しているのだが。
「私と一緒に来なさい」紅茶の湯気のなかに顎先をうずめて、妖精王は言った。「おまえには、ほかにやらねばならないことがある」
なんの話かわかったのだろう、〈
「おまえのためだけに言っているわけではない。リアナの手術が成功したら、おまえにはやってもらわねばならない役割がある。そのために、薬物の影響を抜いておく必要があるのだ」
「やってもらわねばならない役割?」
妖精王はしたり顔で微笑んだ。何を言えばこの青年が動くのか、わかりすぎるほどだ。
「彼女のために死ぬ覚悟があるのだろう? ひとつしかない心臓でも差し出すことができると?」
「ああ」
「では、私の言う通りに治療をこなすことだ。まずは――」妖精王は言いかけて、はっと身を固くした。よくなじんだ〈
〔マリウス〕
「どうした?」フィルバートがけげんな顔をした。
〔来てくれ、マリウス――〕
「クローナンが呼んでいる」
二人は慌てて手術室に駆けこんだ。
妖精王の目に真っ先に飛びこんできたのは、白竜レーデルルの姿だった。部屋いっぱいに白い羽を伸ばすようにして、ばたばたとせわしなく旋回している。狭い場所ではないが、古竜が飛べるようなスペースはないので、動くごとに天井や壁に身体をぶつけているのが異様だった。
「レーデルル!」フィルバートが叫んだ。「いったいどうしたんだ。クローナン王!」
「私もなにがどうだか――」クローナンは青い術着姿でふりかえった。いくらかふらついている。まだ術前であったらしく、リアナは寝台の上で眠っていて、術具も出されていなかった。
「マリウス、白竜を落ち着かせてくれ。〈
〔警告! 警告!〕
レーデルルが巨大な〈
そのあまりにも強く大きな声に、マリウスも思わず顔をしかめ、後ずさった。自分よりも竜の忠誠度が高いクローナンは、より強く揺さぶられることになる。ふらつくのも当然だった。
「何と言っているんだ?」
竜の声が聞こえないフィルが、いぶかしげに尋ねる。
「〔警告! 警告!〕」マリウスは通訳してやった。「そう言っている。〔警告! 警告! 警告!〕。……いったい、どうしたというんだ?……」
そして、古竜のほうへ近づきかけると、はっと動きを止めた。「
イノセンティオンと同じだ
」自分の竜を失ったときの光景を、マリウスはまざまざと思いだした。
「あのときもそうだった。エリサ王に、支離滅裂な警告を発しはじめた。強い警告の〈
「そうだったのか?」フィルバートはいぶかしむ様子だった。「でも、俺には聞こえなかった。いまも聞こえない。俺は〈ハートレス〉だから」
崩れ落ちる柱、巨体の黄竜、割れ鐘のように鳴り響く警告の声……忘れようと思っても忘れられない恐ろしい光景だった。それ以前にもイノセンティオンは辻褄の合わない、それでいて悪夢じみた予言をくり返していて、それが理由でマリウス自身も『狂った竜の黄金賢者』などと
〔警告! 警告!〕
自分の竜の声と、目の前の白竜の声とが重なった。