2-2. かの人の不在 ①
文字数 3,412文字
リアナはフィルバートの部屋の窓際に立って、階下を眺めた。隣接する小塔と向き合っているため、同じような窓がいくつも上下に並んでいるのが見えるだけで、お世辞にも眺めがよいとは言いがたい。
部屋のほうも似たようなものだ。城内にいくつもあるタイプの間取りで、王の執務室に近い階にあるので、官僚や中級貴族の仮住まい用として使われることが多い。続き間はあるが家具は最小限しかなく、簡素で、およそ生活感に欠けていた。侍女は、いつでも部屋に入って掃除をしてよいと言われていたと証言した。ここには重要なものは置いていなかったということか、それとも、もとよりそんなものはないのか。
フィルバートが姿を消して、ひと月が経とうとしていた。リアナはついに、彼の私室を調査する許可を出し、それに付き添っている。
ついに、というのは、なかなかその踏ん切りがつかなかったからだ――なにしろ、この掬星城 でフィルに与えられた公的な役職はなにひとつない。〈ハートレス〉が王の護衛をするのを嫌う貴族たちの手前、彼は"救国の英雄として"、"個人的に"、王の警護にあたっているいうという名目で動いていたためだ。つまり、彼がひと月や二月姿を現さないとしても、なんの職務怠慢にもあたらず、ひいては調査の名目も成り立たないのだった。
だから部隊を再建させておきたかったのに、とリアナはいまさらながら恨めしく思う。かつて自分の率いた部隊で多くの戦死者を出したことを、フィルバートはいまでも悔いているようだったが、逆に言えばそれだけの責任を負う覚悟があったのだ。今でも連隊があれば彼の軛 になったに違いないのに。
(――どこに行ってしまったの、フィル?)
「続き間のほうは、調べ終わりました」
フィルと同じ〈ハートレス〉の私兵、テオがそう声をかけた。
続きの間に入ると、きちんと整えられた寝台が目に入った。奥にはローズウッドのチェスト。
持ち主が選んだ意図を感じない寝具からは、かすかに彼の匂いがしたような気がした。願望のまじった気のせいかもしれない。
リアナは嘆息する。「手がかり以前に、ものがまったくないのね」
「軍隊暮らしが長くなると、みんなそうなりまさぁね」テオは肩をすくめた。
「朝の訓練のあいだに、上官が部屋をまわってチェックするんで。寝具も制服も、たたんだ折り目がずれてるだけでどやされるんですよ。ものを増やすと管理がたいへんなんで、自然と減りますね」
「あなたたちにも何も言わずに出ていったなんて……」
テオたちは、ウルムノキア時代からのフィルの部下だ。信頼の度合いはリアナたちよりもはるかに上だろうに、それでも、彼らにすら、フィルはなにも伝えていなかったのだ。
「いったい、どういうつもりなんでしょうねぇ」
テオも首をかしげる。
フィルバート・スターバウがやったことは、恋愛よりも生殖を重んじる竜族においては、白眼視される行為であったのは間違いない。
繁殖期 に参加するのは、成人を迎えた翌年から、というのがオンブリア社交界の暗黙のルールだ。だからこそ、リアナはデイミオンと公認の恋人同士と目されていなかったのである。
特に医学的な根拠があってのルールではないし、犯罪に分類されるわけではないが、多産を願う竜族たちの旧 い慣習からきていて、五公十家のあいだではとくに大切にされているしきたりだ。
そういうわけでデイミオンは怒り狂っているのだが、そうはいっても本人が見当たらなければ怒りの向けどころがない。最初の一、二日こそ、やってしまったことの重大さにおののいて逃亡したのだろうと言われていたが、ことここにいたって、完全に姿を消しているとしか考えられない。しかも、事前に準備をしていたとしか。
「彼がいまどこにいるのか、心当たりはないの? テオ」
何度も聞いたことを、またリアナは尋ねた。返事もわかっている。
「……ウルムノキア時代から、あんまり自分のことを語るタイプじゃなかったですからね……それに、職務上あちこちで隠密行動もしてたんで、ある意味では行くところはいろいろあるんですよ。やつが本腰入れて身を隠したのなら、見つけるのはほとんど不可能でしょうよ」
「でも、どうしてなの……?」
リアナは自問した。彼のしたことは、結局は王の胸三寸で、罪に問えるようなものではない。竜族の社交界での立ち位置を、彼がいまさら気にするとも思えない。逃亡する理由などどこにもないのだ。
「さあ……俺らにもさっぱり分かりませんが。――陛下、こちらを」
チェストの前で、テオが手招きした。本来なら儀礼違反だが、気にするリアナではない。
引き出しの中には油布につつまれた剣がしまってあった。同じような剣が何本も。残りの引き出しは空だ。シャツや下着の類は持ち出されたのだろう。
「剣が数本、持ち出されてます」
「同じような剣ばっかりなのに、わかるの?」
「昔からのやつはね。毎日見てましたから」そして続ける。「〈大喰らい 〉がない」
それは、剣の名前であるらしい。
「業物 を持っていくくらい、危険な場所に行ったってこと……?」
「俺なら、そうします」
テオの言葉は、フィルについていえばもっとも信頼に足るものだ。五公十家の出身でありながら〈竜の心臓〉を持たなかった彼は、ごく子どものうちに養子に出されたという。幸い、理解ある貴族の養父のもとで成長したようだが、兄であるデイミオンとは人生でほとんど接点がない。むしろ、戦場で生死を共にした部下であるテオやケブのほうが、ずっとフィルのことに詳しい。
「この剣には、なにか彫ってあるわ」
リアナは別の剣に触れた。なにか難しい文が書き記されている。詩句のように見える。
「ああ……懐かしいな」テオが金茶の目を向けた。「読めますか、陛下?」
「あの……わたし、あまり古文は得意じゃないのよ」
「俺もです」テオは、すっかりおなじみになった皮肉げな笑みを浮かべた。
「でもこれは、俺たちにはけっこう、馴染みのある文句なんですよ。昔の詩句の一部ですけど……王国第二十一連隊に与えられた隊是、つまり、モットーです」
読みあげられた文句は、リアナに言葉を失わせるに足るものだった。
「こっちは、『剣こそわが安寧の祖国』。それから……
『祖国のために死ぬるは、甘美にして、栄誉なり』」
♢♦♢
すっかり薄暗い気持ちになって、掬星城 の廊下を歩く。
テオとケブとで、心当たりを探ってくれるとは言っていたが、見通しは明るくない。
フィルバートは、誰にも疑われることなく、アーシャ姫とその協力者たちを内偵していた。そんなことができる男なら、どんな捜索でも簡単にすり抜けられるだろう。そして、そんなにも入念に姿を消すというのなら、そもそもリアナとのことなど無関係に出奔したのかもしれない。
より悪ければ、フィルはもっと別の目的があって、リアナと
――たとえあなたが何者でも、俺はあなたのそばを離れない。ひとつしかない心臓も、俺の最期の息まですべて、あなたの持ち物だ。
あの嵐の夜に、彼は恐ろしいほど真剣な声でそう言った。まったくの嘘だったなどとは思いたくないが、嘘をついたことがないとは到底言えないのがフィルバートという男だった。少なくとも、『あなたのそばを離れない』に関しては。
貴人牢でのアーシャ姫の取り調べ報告書は、しばらく読まないほうがよさそうだとリアナは思った。どれほど甘い言葉をささやかれたのか、自分と比較してさらに気が滅入りそうで。
侍従に先導されながら、日当たりのよいガラス張りのデイルームへ入った。年じゅうを通して暖かく過ごしやすい部屋で、冬のあいだ、リアナは自室よりも気に入ってよく入り浸っていた。調度品も格式ばったものではなく、天井近くに鳥籠がつりさげられ、鉢植えの小さな果樹が置かれる程度で小ぢんまりしている。
いまは、その部屋にグウィナ卿が滞在している。
許可を得て入室すると、その日当たりのいい部屋のライティングテーブルの前で、魂が抜けたようなグウィナがぼんやりと外を眺めているところだった。ふだんの活気にあふれた魅力は薄れ、もともと色白の顔が紙のように白くなっている。子どもたちの姿がないが、どうしたのだろう。城内のどこかで遊んでいるのか、ハダルクが見ているのだろうか。
部屋のほうも似たようなものだ。城内にいくつもあるタイプの間取りで、王の執務室に近い階にあるので、官僚や中級貴族の仮住まい用として使われることが多い。続き間はあるが家具は最小限しかなく、簡素で、およそ生活感に欠けていた。侍女は、いつでも部屋に入って掃除をしてよいと言われていたと証言した。ここには重要なものは置いていなかったということか、それとも、もとよりそんなものはないのか。
フィルバートが姿を消して、ひと月が経とうとしていた。リアナはついに、彼の私室を調査する許可を出し、それに付き添っている。
ついに、というのは、なかなかその踏ん切りがつかなかったからだ――なにしろ、この
だから部隊を再建させておきたかったのに、とリアナはいまさらながら恨めしく思う。かつて自分の率いた部隊で多くの戦死者を出したことを、フィルバートはいまでも悔いているようだったが、逆に言えばそれだけの責任を負う覚悟があったのだ。今でも連隊があれば彼の
(――どこに行ってしまったの、フィル?)
「続き間のほうは、調べ終わりました」
フィルと同じ〈ハートレス〉の私兵、テオがそう声をかけた。
続きの間に入ると、きちんと整えられた寝台が目に入った。奥にはローズウッドのチェスト。
持ち主が選んだ意図を感じない寝具からは、かすかに彼の匂いがしたような気がした。願望のまじった気のせいかもしれない。
リアナは嘆息する。「手がかり以前に、ものがまったくないのね」
「軍隊暮らしが長くなると、みんなそうなりまさぁね」テオは肩をすくめた。
「朝の訓練のあいだに、上官が部屋をまわってチェックするんで。寝具も制服も、たたんだ折り目がずれてるだけでどやされるんですよ。ものを増やすと管理がたいへんなんで、自然と減りますね」
「あなたたちにも何も言わずに出ていったなんて……」
テオたちは、ウルムノキア時代からのフィルの部下だ。信頼の度合いはリアナたちよりもはるかに上だろうに、それでも、彼らにすら、フィルはなにも伝えていなかったのだ。
「いったい、どういうつもりなんでしょうねぇ」
テオも首をかしげる。
フィルバート・スターバウがやったことは、恋愛よりも生殖を重んじる竜族においては、白眼視される行為であったのは間違いない。
特に医学的な根拠があってのルールではないし、犯罪に分類されるわけではないが、多産を願う竜族たちの
そういうわけでデイミオンは怒り狂っているのだが、そうはいっても本人が見当たらなければ怒りの向けどころがない。最初の一、二日こそ、やってしまったことの重大さにおののいて逃亡したのだろうと言われていたが、ことここにいたって、完全に姿を消しているとしか考えられない。しかも、事前に準備をしていたとしか。
「彼がいまどこにいるのか、心当たりはないの? テオ」
何度も聞いたことを、またリアナは尋ねた。返事もわかっている。
「……ウルムノキア時代から、あんまり自分のことを語るタイプじゃなかったですからね……それに、職務上あちこちで隠密行動もしてたんで、ある意味では行くところはいろいろあるんですよ。やつが本腰入れて身を隠したのなら、見つけるのはほとんど不可能でしょうよ」
「でも、どうしてなの……?」
リアナは自問した。彼のしたことは、結局は王の胸三寸で、罪に問えるようなものではない。竜族の社交界での立ち位置を、彼がいまさら気にするとも思えない。逃亡する理由などどこにもないのだ。
「さあ……俺らにもさっぱり分かりませんが。――陛下、こちらを」
チェストの前で、テオが手招きした。本来なら儀礼違反だが、気にするリアナではない。
引き出しの中には油布につつまれた剣がしまってあった。同じような剣が何本も。残りの引き出しは空だ。シャツや下着の類は持ち出されたのだろう。
「剣が数本、持ち出されてます」
「同じような剣ばっかりなのに、わかるの?」
「昔からのやつはね。毎日見てましたから」そして続ける。「〈
それは、剣の名前であるらしい。
「
「俺なら、そうします」
テオの言葉は、フィルについていえばもっとも信頼に足るものだ。五公十家の出身でありながら〈竜の心臓〉を持たなかった彼は、ごく子どものうちに養子に出されたという。幸い、理解ある貴族の養父のもとで成長したようだが、兄であるデイミオンとは人生でほとんど接点がない。むしろ、戦場で生死を共にした部下であるテオやケブのほうが、ずっとフィルのことに詳しい。
「この剣には、なにか彫ってあるわ」
リアナは別の剣に触れた。なにか難しい文が書き記されている。詩句のように見える。
「ああ……懐かしいな」テオが金茶の目を向けた。「読めますか、陛下?」
「あの……わたし、あまり古文は得意じゃないのよ」
「俺もです」テオは、すっかりおなじみになった皮肉げな笑みを浮かべた。
「でもこれは、俺たちにはけっこう、馴染みのある文句なんですよ。昔の詩句の一部ですけど……王国第二十一連隊に与えられた隊是、つまり、モットーです」
読みあげられた文句は、リアナに言葉を失わせるに足るものだった。
「こっちは、『剣こそわが安寧の祖国』。それから……
『祖国のために死ぬるは、甘美にして、栄誉なり』」
♢♦♢
すっかり薄暗い気持ちになって、
テオとケブとで、心当たりを探ってくれるとは言っていたが、見通しは明るくない。
フィルバートは、誰にも疑われることなく、アーシャ姫とその協力者たちを内偵していた。そんなことができる男なら、どんな捜索でも簡単にすり抜けられるだろう。そして、そんなにも入念に姿を消すというのなら、そもそもリアナとのことなど無関係に出奔したのかもしれない。
より悪ければ、フィルはもっと別の目的があって、リアナと
ああいうこと
に及んだのかもしれない。――たとえあなたが何者でも、俺はあなたのそばを離れない。ひとつしかない心臓も、俺の最期の息まですべて、あなたの持ち物だ。
あの嵐の夜に、彼は恐ろしいほど真剣な声でそう言った。まったくの嘘だったなどとは思いたくないが、嘘をついたことがないとは到底言えないのがフィルバートという男だった。少なくとも、『あなたのそばを離れない』に関しては。
貴人牢でのアーシャ姫の取り調べ報告書は、しばらく読まないほうがよさそうだとリアナは思った。どれほど甘い言葉をささやかれたのか、自分と比較してさらに気が滅入りそうで。
侍従に先導されながら、日当たりのよいガラス張りのデイルームへ入った。年じゅうを通して暖かく過ごしやすい部屋で、冬のあいだ、リアナは自室よりも気に入ってよく入り浸っていた。調度品も格式ばったものではなく、天井近くに鳥籠がつりさげられ、鉢植えの小さな果樹が置かれる程度で小ぢんまりしている。
いまは、その部屋にグウィナ卿が滞在している。
許可を得て入室すると、その日当たりのいい部屋のライティングテーブルの前で、魂が抜けたようなグウィナがぼんやりと外を眺めているところだった。ふだんの活気にあふれた魅力は薄れ、もともと色白の顔が紙のように白くなっている。子どもたちの姿がないが、どうしたのだろう。城内のどこかで遊んでいるのか、ハダルクが見ているのだろうか。