8-2. マリウスとリアナ ①
文字数 2,020文字
その日の夕食後、リアナは再び図書室に赴いて、必要な書籍をサドルバッグに詰める作業に没頭していた。フィルと相談して、明日の早朝に出発すると決めている。〈竜の心臓〉の摘出と、その後の元ライダーの健康状態の記録など、ここでしか知りえない情報が山ほどある。何が必要で、そうでないかといった判断も現状では難しいので、リアナはできるだけ多くの研究日誌を持ち帰るつもりでいた。
「それは写しがない貴重な冊子なんだが」
奥のカウチに寝そべってぼやいている元養い親に、リアナは冷たく答えた。「なら、いま写しを作ればいいわ。今晩中に」
「そうはいくまいよ。コーラーたちも寝ているし」
「じゃ、あきらめることね」
リアナはほとんど会話に注意を向けることなく、さらに本棚の間を歩きまわった。「ライダーたちの健康被害について、もっと早期から発見できる方法は……」
カウチに寝そべっていたマリウスはそれを黙って聞いていたが、結局は立ちあがって別の書架から冊子を取りだしてきてくれた。
「ここ五十年分の、ライダーの死因統計だ。発症年齢と初期症状についても遺族に聴き取り調査されている。現状ではこの程度の情報しかないよ」
「ありがとう。ないよりいいわ」
「おまえはそういうが、とても貴重な資料なんだぞ。タマリスでは誰も統計を取ろうとしなかったんだから」
「重要な資料だからこそ、写しを作るべきよ。〈御座所〉とわたしの学舎に写本させるわ」
「だが……」
「代わりに、ここ二年の数字をつけて返す。それでどう?」
「……調査したのか?」
「王みずからね。貸す気になった?」
「……よかろう」
なんだかんだ、情報と数字が目の前に吊りさげられると弱いらしい。リアナは笑みを顔に出すのを抑えられなかった。
イノセンティウス王、あるいはオンブリアのマリウス卿、あるいは〈隠れ里〉のイニ――は、卓の上の小箱をあけると、砂糖できらきら光る菓子をつまみあげた。
「なぜ竜乗りたちのためにそこまでする?」
果実を固めて砂糖をまぶしたらしい菓子を、男は食べもせずに眺めている。「おまえがライダーに戻ろうが戻るまいが、王位はすでに後継者に移っているだろうに」
「どうしてそんなことを聞くの?」
冊子を並べて確認しながら、リアナは振り返りもしないで言う。
「オンブリアの竜族たちはみんな、灰死病の恐怖と戦っているのよ。これほど有効な治療法があれば、どれだけのひとたちが助かるか、考えたことはないの? あなたの祖国なのよ」
「おまえにとっては祖国だろうが、今の私にとっては、ニザランを支配しようとする異民族だよ」
「――だとしても、人道的な見地から手を差し伸べるべきだわ。なんらかの交渉材料に使ったっていい。必要ならわたしが橋渡しをする」
「理想のとおりにいけばいいがな。五公十家は、竜の支配権をわたすくらいなら灰の中で滅びることを選ぶだろうよ」
リアナは抱えていた冊子をばさりと置いて男の前に立った。
「それを決めるのは五公十家で、あなたじゃないわ。なにが彼らのためで、そうでないのか、あなたが決めるのは傲慢だと思わないの?」
マリウスは、つまんでいた菓子を結局食べることなく箱に戻した。そしてカウチの上に身を起こすと、うつむいたままそっと言う。
「おまえはここにとどまったほうがいい」
「いきなり何を言いだすの?」
男は形のいい長い指を組みあわせた。「アエディクラとオンブリアの軍事力は思ったよりも拮抗している。近いうちに、ガエネイス王はかならずオンブリアに攻め込むだろう。おまえも王なら、その兆候を見ていよう」
リアナは押し黙った。マリウスの言葉は、自分でも考えていたことだったからだ。「仮に王として戻れたとしても、そこから先どうする? おまえは戦禍の地獄を知らない。和平を唱えてレヘリーンのように無能の王となるか? 戦争を指揮してエリサのように恐怖の魔王となるか?」
彼女は少しためらい、王が身を起こしたおかげで空いたカウチのスペースに腰かけた。
「……わからないわ」
そして、養い親を真似するように、小箱のなかの菓子をつまんだ。固そうに見えたが、グミのようで思ったより柔らかい。
「正直、白竜のライダーでなくなったわたしに何かできるとも思えないし。フィルや……それにあなたやクローナン王を見ていても、戦争の傷跡でいまも苦しんでいるのがわかる。そんなふうな経験をするのは怖い。誰かを失うのも……
でも、その役割を全部デイミオンにまかせて、自分だけ安全な場所にいたいとも思えないよ。イニ、あなたにはここに守るべき民がいるだろうけど、ここではわたしは何者でもないのよ。
なにが待ち受けているとしても、デイミオンの近くにいたいの。一緒に重荷をわかちあいたい。これまでもそうしてきたの」
マリウスは、彼女が話すあいだ、その淡い紅茶色の瞳を伏せたままでいたが、やがて、
「それでは、おまえを生かそうと思った私のこころみが無駄になる」とぽつりと言った。
「それは写しがない貴重な冊子なんだが」
奥のカウチに寝そべってぼやいている元養い親に、リアナは冷たく答えた。「なら、いま写しを作ればいいわ。今晩中に」
「そうはいくまいよ。コーラーたちも寝ているし」
「じゃ、あきらめることね」
リアナはほとんど会話に注意を向けることなく、さらに本棚の間を歩きまわった。「ライダーたちの健康被害について、もっと早期から発見できる方法は……」
カウチに寝そべっていたマリウスはそれを黙って聞いていたが、結局は立ちあがって別の書架から冊子を取りだしてきてくれた。
「ここ五十年分の、ライダーの死因統計だ。発症年齢と初期症状についても遺族に聴き取り調査されている。現状ではこの程度の情報しかないよ」
「ありがとう。ないよりいいわ」
「おまえはそういうが、とても貴重な資料なんだぞ。タマリスでは誰も統計を取ろうとしなかったんだから」
「重要な資料だからこそ、写しを作るべきよ。〈御座所〉とわたしの学舎に写本させるわ」
「だが……」
「代わりに、ここ二年の数字をつけて返す。それでどう?」
「……調査したのか?」
「王みずからね。貸す気になった?」
「……よかろう」
なんだかんだ、情報と数字が目の前に吊りさげられると弱いらしい。リアナは笑みを顔に出すのを抑えられなかった。
イノセンティウス王、あるいはオンブリアのマリウス卿、あるいは〈隠れ里〉のイニ――は、卓の上の小箱をあけると、砂糖できらきら光る菓子をつまみあげた。
「なぜ竜乗りたちのためにそこまでする?」
果実を固めて砂糖をまぶしたらしい菓子を、男は食べもせずに眺めている。「おまえがライダーに戻ろうが戻るまいが、王位はすでに後継者に移っているだろうに」
「どうしてそんなことを聞くの?」
冊子を並べて確認しながら、リアナは振り返りもしないで言う。
「オンブリアの竜族たちはみんな、灰死病の恐怖と戦っているのよ。これほど有効な治療法があれば、どれだけのひとたちが助かるか、考えたことはないの? あなたの祖国なのよ」
「おまえにとっては祖国だろうが、今の私にとっては、ニザランを支配しようとする異民族だよ」
「――だとしても、人道的な見地から手を差し伸べるべきだわ。なんらかの交渉材料に使ったっていい。必要ならわたしが橋渡しをする」
「理想のとおりにいけばいいがな。五公十家は、竜の支配権をわたすくらいなら灰の中で滅びることを選ぶだろうよ」
リアナは抱えていた冊子をばさりと置いて男の前に立った。
「それを決めるのは五公十家で、あなたじゃないわ。なにが彼らのためで、そうでないのか、あなたが決めるのは傲慢だと思わないの?」
マリウスは、つまんでいた菓子を結局食べることなく箱に戻した。そしてカウチの上に身を起こすと、うつむいたままそっと言う。
「おまえはここにとどまったほうがいい」
「いきなり何を言いだすの?」
男は形のいい長い指を組みあわせた。「アエディクラとオンブリアの軍事力は思ったよりも拮抗している。近いうちに、ガエネイス王はかならずオンブリアに攻め込むだろう。おまえも王なら、その兆候を見ていよう」
リアナは押し黙った。マリウスの言葉は、自分でも考えていたことだったからだ。「仮に王として戻れたとしても、そこから先どうする? おまえは戦禍の地獄を知らない。和平を唱えてレヘリーンのように無能の王となるか? 戦争を指揮してエリサのように恐怖の魔王となるか?」
彼女は少しためらい、王が身を起こしたおかげで空いたカウチのスペースに腰かけた。
「……わからないわ」
そして、養い親を真似するように、小箱のなかの菓子をつまんだ。固そうに見えたが、グミのようで思ったより柔らかい。
「正直、白竜のライダーでなくなったわたしに何かできるとも思えないし。フィルや……それにあなたやクローナン王を見ていても、戦争の傷跡でいまも苦しんでいるのがわかる。そんなふうな経験をするのは怖い。誰かを失うのも……
でも、その役割を全部デイミオンにまかせて、自分だけ安全な場所にいたいとも思えないよ。イニ、あなたにはここに守るべき民がいるだろうけど、ここではわたしは何者でもないのよ。
なにが待ち受けているとしても、デイミオンの近くにいたいの。一緒に重荷をわかちあいたい。これまでもそうしてきたの」
マリウスは、彼女が話すあいだ、その淡い紅茶色の瞳を伏せたままでいたが、やがて、
「それでは、おまえを生かそうと思った私のこころみが無駄になる」とぽつりと言った。