7-1. ハートストーン ⑤
文字数 1,650文字
クローナンが再びやってきて彼女の意向を尋ね、翌日の手術を決めて去っていくのを、フィルはほとんどぼうぜんと見送った。そんな重大事を、四半刻にも足らない時間であっという間に決めてしまうリアナが腹立たしくさえあった。
ライダーとして死ぬかハートレスとして生きるか、などというのは命題にしてもくだらないことはフィル自身よく理解している。一番辛いのはリアナ本人のはずなのだから、フィルの役割は最善の選択ができるよう彼女を支えることだけだということも。だが、頭で理解していてもどうしようもない感情が、つぎつぎと波になって押し寄せてくる。この旅に出てから極端に睡眠時間が減っていて、そろそろ肉体的にも限界が来ようとしている。おそらく、この混乱はそのせいもあるのだろう。明日にそなえて、昼のうちに少し眠らなければ。
だが、すぐには眠気が訪れそうになく、フィルは彼女に断ってツリーハウスを出た。
ランタンや幔幕があちこちに下がったままの冬の森を歩いていく。夜には幻想的な光景だが、昼の光の下では子供が作った秘密基地のように見えて、寒々しい。地面を踏むと、落ち葉がかさかさと音を立てる。
もう一度クローナンに会うつもりで〈鉄の王〉の城に向かっていたが、会ってどうするのかは決めかねていた。考えながら、というより、考えをとり散らかしながら歩き、そろそろ城の前庭に入ったころ、幻影があらわれた。
かつての部下たちや、母、兄、あるいは名も知らぬ敵といった幻があらわれ、フィルの周囲で煙のように漂ってはしきりとなにかを訴えかけてきた。こういうときは、感受性の低い〈ハートレス〉であることがありがたい。彼はそのすべてを斬って捨てた。子どもの姿をした自分や、リアナの姿をしたものも。すべて幻だ。だが、剣が通じる。
「くだらない興行 の手品はやめろ。無意味だ」剣を構えたまま、フィルは言った。
森の中から、妖精王の姿があらわれた。
「すべての怖れは望みを明らかにする」フィルの心を読んだかのように言い、手に持った林檎をかじった。白い健康そうな歯がのぞく。「無意味とは思わないが」
フィルは剣をおさめ、嘆息した。この男の思わせぶりな、もってまわったような口調にはうんざりする。つきあっていられない。
「肥溜めから漂ってくる悪臭のように現れて俺を悩ませるよりも、あなたにはやるべきことがあるはずだ」
「方法はある」妖精王は急に言った。
フィルは眉をひそめた。「なんのことだ?」
近づいてきた壮年の男は、わざとらしく林檎を彼に見せつけた。「あの子を〈ハートレス〉にしない方法だ」
親しげに肩に腕をまわされても、フィルは身じろぎもしなかった。
「デーグルモールの女王にする、というのもひとつだな」妖精王がささやいた。
その言葉で自動的に思いだす。灰色の瞳、白い肌にからみつく黒い蔦の紋様。あの安宿で、彼の膝に乗りあがって血をすすっていたリアナのことは、忘れようとしても忘れられない。真珠のような小さな歯が首筋を鋭く噛む、痛みと快感がないまぜになった感覚も。彼の腕のなかで、満腹になった美しい獣のように眠りについたリアナ……。ぞくりと背筋を這いあがってきたのは、悪寒とは正反対の感覚だった。
「あるいは、ニザランの女王になることもできる」妖精王は言った。
「彼女ほど強い〈竜の心臓〉の持ち主なら可能だろう。おまえは王配になってもいい。そうだろう? ニザランにはあのいまいましい繁殖期 の縛りもない」
頬とあごに触れる、彼女の手の感触がまだ残っていた。さっき、リアナの手を払いのけなかったのは、欲望と不安の渦にとうに呑みこまれていたからかもしれない。
「あいかわらず悪魔のような男だな、『狂った竜の黄金賢者』」フィルは冷たい声で答えた。「おまえは彼女をここに留めておきたいだけだろう。……彼女を異形の者にはさせない」
妖精王がなにを考えていたのかはわからない。しばらく間を置いて言った。「おまえには緑狂笛 の依存症状がある」
瞬間、二人の男の間に強い緊張が走った。
ライダーとして死ぬかハートレスとして生きるか、などというのは命題にしてもくだらないことはフィル自身よく理解している。一番辛いのはリアナ本人のはずなのだから、フィルの役割は最善の選択ができるよう彼女を支えることだけだということも。だが、頭で理解していてもどうしようもない感情が、つぎつぎと波になって押し寄せてくる。この旅に出てから極端に睡眠時間が減っていて、そろそろ肉体的にも限界が来ようとしている。おそらく、この混乱はそのせいもあるのだろう。明日にそなえて、昼のうちに少し眠らなければ。
だが、すぐには眠気が訪れそうになく、フィルは彼女に断ってツリーハウスを出た。
ランタンや幔幕があちこちに下がったままの冬の森を歩いていく。夜には幻想的な光景だが、昼の光の下では子供が作った秘密基地のように見えて、寒々しい。地面を踏むと、落ち葉がかさかさと音を立てる。
もう一度クローナンに会うつもりで〈鉄の王〉の城に向かっていたが、会ってどうするのかは決めかねていた。考えながら、というより、考えをとり散らかしながら歩き、そろそろ城の前庭に入ったころ、幻影があらわれた。
かつての部下たちや、母、兄、あるいは名も知らぬ敵といった幻があらわれ、フィルの周囲で煙のように漂ってはしきりとなにかを訴えかけてきた。こういうときは、感受性の低い〈ハートレス〉であることがありがたい。彼はそのすべてを斬って捨てた。子どもの姿をした自分や、リアナの姿をしたものも。すべて幻だ。だが、剣が通じる。
「くだらない
森の中から、妖精王の姿があらわれた。
「すべての怖れは望みを明らかにする」フィルの心を読んだかのように言い、手に持った林檎をかじった。白い健康そうな歯がのぞく。「無意味とは思わないが」
フィルは剣をおさめ、嘆息した。この男の思わせぶりな、もってまわったような口調にはうんざりする。つきあっていられない。
「肥溜めから漂ってくる悪臭のように現れて俺を悩ませるよりも、あなたにはやるべきことがあるはずだ」
「方法はある」妖精王は急に言った。
フィルは眉をひそめた。「なんのことだ?」
近づいてきた壮年の男は、わざとらしく林檎を彼に見せつけた。「あの子を〈ハートレス〉にしない方法だ」
親しげに肩に腕をまわされても、フィルは身じろぎもしなかった。
「デーグルモールの女王にする、というのもひとつだな」妖精王がささやいた。
その言葉で自動的に思いだす。灰色の瞳、白い肌にからみつく黒い蔦の紋様。あの安宿で、彼の膝に乗りあがって血をすすっていたリアナのことは、忘れようとしても忘れられない。真珠のような小さな歯が首筋を鋭く噛む、痛みと快感がないまぜになった感覚も。彼の腕のなかで、満腹になった美しい獣のように眠りについたリアナ……。ぞくりと背筋を這いあがってきたのは、悪寒とは正反対の感覚だった。
「あるいは、ニザランの女王になることもできる」妖精王は言った。
「彼女ほど強い〈竜の心臓〉の持ち主なら可能だろう。おまえは王配になってもいい。そうだろう? ニザランにはあのいまいましい
頬とあごに触れる、彼女の手の感触がまだ残っていた。さっき、リアナの手を払いのけなかったのは、欲望と不安の渦にとうに呑みこまれていたからかもしれない。
「あいかわらず悪魔のような男だな、『狂った竜の黄金賢者』」フィルは冷たい声で答えた。「おまえは彼女をここに留めておきたいだけだろう。……彼女を異形の者にはさせない」
妖精王がなにを考えていたのかはわからない。しばらく間を置いて言った。「おまえには
瞬間、二人の男の間に強い緊張が走った。