2-1. 嵐の夜 ③
文字数 2,493文字
なにかが少しずつ、間違っているような気がした。
デイミオンはわたしが好きならほかの女性と共寝をするべきじゃないし、フィルは繁殖期 に入っていない女性にこういうことをすべきじゃないし、それからもちろん、わたしはフィルとこんなことをすべきじゃない。
――それでも、いまはフィルだけが欲しかった。
手を伸ばして顔に触れ、もう何度目かもわからないキスに頭が奪われる。
フィルのキスは、すべてを忘れさせる力があった。デイミオンの「繁殖期 の務め」に苦しむ夜も、〈隠れ里〉を焼かれたあの朝のことも、そしていつも頭から離れない、デーグルモールに連れさられた子どもたちのことさえ、燃やしつくし、消し去った。後に残ったのは彼の手と唇の熱さだけ。その確かさだけだ。
フィルもそうだといいのに、とリアナは思う――指揮官として自分の部下を戦死させたことが、いまでも彼を苦しめているという。自分を怪物だと言うほどの、その重荷を下ろすことができないにしても、ほんのいっときでも、彼がそれを忘れられればいい。
フィルは顔を傾け、リアナの首筋を軽く噛んだ。思わず声をあげると、「シーッ、痛くしないから」となだめられ、鎖骨を、肩を口で愛撫されていく。髪がちくちくと首筋や頬をかすめ、そのあいだにも、大きな手が確かめるように身体を撫でている。ごく普通の青年に見えても歴戦の戦士であるフィルの手は、皮が厚くてかさついていて、指は剣だこがあってさらに硬かった。その手で触れられると、これまで感じたことのないような感覚が沸き起こってくる。親指が胸をかすめると、電流が走ったように感じてしまう。
自分のものではないように、勝手に反応する身体に、リアナは戸惑ってあえいだ。が、それはフィルのほうも同じらしい。十人の兵士を相手に戦っても息を乱さないような男が、彼女の身体に触れているだけで、荒く息をついているのだから。なにか頼りない気持ちで手を泳がせていると、また指を取られ、彼の首にまわされた。
自分でも触ったことのないような体内の場所に、彼の指が押し入ってくる。驚きと痛みで思わず、広い背中に爪を立てると、フィルが低くうめいた。なだめるように口づけられるうちに、痛みは徐々にやわらぎ、くすぐったさと快感が入り混じるような不思議な感覚をおぼえる。
……裸の胸が押しつけられ、ふたりの心音が重なった。
それを、デイミオンが聞いている。
♢♦♢
春の嵐は、夜が更けていってもいっこうにおさまる気配を見せない。
繁殖期 のはじまりにざわつく時期は門の内外でもトラブルが起きやすく、不寝番たちは神経をとがらせていた。くわえてこの大雨だ。わずかに張りだした廂の下でほぼずぶ濡れになりながら、勤務の不運を呪っていたところ、
嵐すらさえぎる天蓋のごとく巨大な身体、つんざくような鳴き声。羽ばたきの風圧で兵士たちの身体がよろめく。
黒竜アーダルと、その主人が
竜の住む国にあっては、門を通ろうとすれば誰何 できても、竜で降り立てば阻むことはできない。究極の兵器と言われるゆえんだ。横殴りに降る雨よりもさらに恐ろしい形相の王太子が、ずかずかと城内に入っていく。静かだった城内に軍靴が高く響き、侍従たちの慌てた声とあいまって急にうるさくなった。
「王はどこだ」
濡れそぼった黒衣の王太子が問う。
「デイミオン卿 、これはいったい」
「どこだと聞いている!!」
黒竜大公の剣幕に合わせるように、雷がぱあっと光った。
すわ謀反かと、侍従たちは恐怖に震えた。報告しようにも、廷臣たちも夢のなかだ。オンブリア最強の竜を従えた〈黒竜大公〉ならば、たった一人でこの城を制圧できる力がある。「生き物を傷つける可能性のある竜術は使えない」という制約を受ける竜のなかで、黒竜だけがその例外であるためだ。すべての竜とその主人を合わせても黒竜一頭にかなわない可能性すらあり、抵抗は無意味の一言だった。
恐怖のあまり口もきけなくなっている侍従たちのなかで、勇敢な侍女がひとり進み出た。リアナの近くにいるのを見たことがある、黒髪の小柄な娘だった。怒りのあまり名前は忘れた。
「陛下はフィルバート卿と外出なさっています。お帰りのご予定でしたが、この嵐ですから、今日はお戻りにはなれないと思いますが……」
「フィル、あいつか……!」
黒竜大公は口の中で短い呪詛を呟いた。「出先はどこだ!?」
「殿下であれば、〈呼 ばい〉の力でお分かりになるのでは?」
デーグルモールすら裸足で逃げ出しそうな形相でにらまれ、ミヤミの背後にいた廷臣たちは震えあがった。陛下づきに特別に推薦された娘だけあって度胸だけはすごいが、それも今夜を無事生き延びられればの話ではないか。
「王は・どこかと・聞いている」
怒りのあまり、低く一言ずつ区切って聞こえる。背後でばたり、と音がした。廷臣の一人が恐怖で気を失ったのだ。が、若い侍女は平然と答える。
「ですから、王太子殿下は陛下と〈呼 ばい〉の絆で結ばれておりますので――」
「ミヤミ! は、はやくお答えしろ!」死にたいのか、という警告は飲み込んで、侍従長が命じた。
「――お分かりになるのではと。つまり、わたしどもにも分かりませんので。フィルバート卿は『陛下とレーデルルを飛行訓練にお連れしてくる』とおっしゃっていましたが、場所までは」
デイミオンはそれを聞いて低くうなった。王たる者がろくに護衛も連れず、所在もわからない状態になることなど人間の国ではまずありえないだろう。だがオンブリアでは長い間この〈呼 ばい〉の仕組みが貴族・官僚から使用人にいたるまで広く知られている。
つまり、王の所在は、王太子の管轄下にあるのだ。これは、ある意味では自分の失態だった。
デイミオンは、『今すぐ世界が滅んでほしい、なんなら自分が滅ぼしてもいい、まずはおまえだ』というような荒みきった目で侍従長を見た。
「――陛下はいま、〈呼 ばい〉の届かない状態にある」
デイミオンはわたしが好きならほかの女性と共寝をするべきじゃないし、フィルは
――それでも、いまはフィルだけが欲しかった。
手を伸ばして顔に触れ、もう何度目かもわからないキスに頭が奪われる。
フィルのキスは、すべてを忘れさせる力があった。デイミオンの「
フィルもそうだといいのに、とリアナは思う――指揮官として自分の部下を戦死させたことが、いまでも彼を苦しめているという。自分を怪物だと言うほどの、その重荷を下ろすことができないにしても、ほんのいっときでも、彼がそれを忘れられればいい。
フィルは顔を傾け、リアナの首筋を軽く噛んだ。思わず声をあげると、「シーッ、痛くしないから」となだめられ、鎖骨を、肩を口で愛撫されていく。髪がちくちくと首筋や頬をかすめ、そのあいだにも、大きな手が確かめるように身体を撫でている。ごく普通の青年に見えても歴戦の戦士であるフィルの手は、皮が厚くてかさついていて、指は剣だこがあってさらに硬かった。その手で触れられると、これまで感じたことのないような感覚が沸き起こってくる。親指が胸をかすめると、電流が走ったように感じてしまう。
自分のものではないように、勝手に反応する身体に、リアナは戸惑ってあえいだ。が、それはフィルのほうも同じらしい。十人の兵士を相手に戦っても息を乱さないような男が、彼女の身体に触れているだけで、荒く息をついているのだから。なにか頼りない気持ちで手を泳がせていると、また指を取られ、彼の首にまわされた。
自分でも触ったことのないような体内の場所に、彼の指が押し入ってくる。驚きと痛みで思わず、広い背中に爪を立てると、フィルが低くうめいた。なだめるように口づけられるうちに、痛みは徐々にやわらぎ、くすぐったさと快感が入り混じるような不思議な感覚をおぼえる。
……裸の胸が押しつけられ、ふたりの心音が重なった。
それを、デイミオンが聞いている。
♢♦♢
春の嵐は、夜が更けていってもいっこうにおさまる気配を見せない。
それ
がやってきた。嵐すらさえぎる天蓋のごとく巨大な身体、つんざくような鳴き声。羽ばたきの風圧で兵士たちの身体がよろめく。
黒竜アーダルと、その主人が
門の中に
降りたったのだ。人間たちのつけた『魔王』というあだ名も、あながち遠くはない出で立ちだった。竜の住む国にあっては、門を通ろうとすれば
「王はどこだ」
濡れそぼった黒衣の王太子が問う。
「デイミオン
「どこだと聞いている!!」
黒竜大公の剣幕に合わせるように、雷がぱあっと光った。
すわ謀反かと、侍従たちは恐怖に震えた。報告しようにも、廷臣たちも夢のなかだ。オンブリア最強の竜を従えた〈黒竜大公〉ならば、たった一人でこの城を制圧できる力がある。「生き物を傷つける可能性のある竜術は使えない」という制約を受ける竜のなかで、黒竜だけがその例外であるためだ。すべての竜とその主人を合わせても黒竜一頭にかなわない可能性すらあり、抵抗は無意味の一言だった。
恐怖のあまり口もきけなくなっている侍従たちのなかで、勇敢な侍女がひとり進み出た。リアナの近くにいるのを見たことがある、黒髪の小柄な娘だった。怒りのあまり名前は忘れた。
「陛下はフィルバート卿と外出なさっています。お帰りのご予定でしたが、この嵐ですから、今日はお戻りにはなれないと思いますが……」
「フィル、あいつか……!」
黒竜大公は口の中で短い呪詛を呟いた。「出先はどこだ!?」
「殿下であれば、〈
デーグルモールすら裸足で逃げ出しそうな形相でにらまれ、ミヤミの背後にいた廷臣たちは震えあがった。陛下づきに特別に推薦された娘だけあって度胸だけはすごいが、それも今夜を無事生き延びられればの話ではないか。
「王は・どこかと・聞いている」
怒りのあまり、低く一言ずつ区切って聞こえる。背後でばたり、と音がした。廷臣の一人が恐怖で気を失ったのだ。が、若い侍女は平然と答える。
「ですから、王太子殿下は陛下と〈
「ミヤミ! は、はやくお答えしろ!」死にたいのか、という警告は飲み込んで、侍従長が命じた。
「――お分かりになるのではと。つまり、わたしどもにも分かりませんので。フィルバート卿は『陛下とレーデルルを飛行訓練にお連れしてくる』とおっしゃっていましたが、場所までは」
デイミオンはそれを聞いて低くうなった。王たる者がろくに護衛も連れず、所在もわからない状態になることなど人間の国ではまずありえないだろう。だがオンブリアでは長い間この〈
つまり、王の所在は、王太子の管轄下にあるのだ。これは、ある意味では自分の失態だった。
デイミオンは、『今すぐ世界が滅んでほしい、なんなら自分が滅ぼしてもいい、まずはおまえだ』というような荒みきった目で侍従長を見た。
「――陛下はいま、〈