2-1. エスケープ ②
文字数 3,275文字
リアナは椅子に腰かけたまま、動かなくなった時計に目をやった。凍りついた水が内部で溶けたのか、昼を指したまま止まってしまったのだ。だから見ても意味はないのだが、つい目が向いてしまう。
デイミオンが部屋を立ち去ってから、半刻近く経っているのは間違いない。窓から見える月はまだ低い位置にあるが、窓枠のなかをゆっくりと移動している。氷が融けて部屋もまた水浸しになっており、彼が灯していった燭台の明かりを受けて、ぽた、ぽた、と水音が続いている。
意識はとてもはっきりしていた。
ずっと感じていた飢えと渇きがやわらぎ、体温が戻り、そしてようやくものを考えられるようになった。長いあいだ、水のなかに閉じこめられていたように外界がぼんやりと遠く感じられていたのだが、それすら自覚していなかった。彼が来るのがもう少し遅かったら、おそらく完全にデーグルモールに変化してしまったのではないかと思うと恐ろしい。
(でも、もう大丈夫だ)
祈るように言い聞かせる。
(デイミオンが来てくれた。彼がいれば、自分を保っていられる。これ以上、デーグルモールみたいにならずに済む)
おまじないのように、口のなかで彼の名前を何度もつぶやく。そうするとすこし気持ちが落ち着いてきた。抱きしめてくれる腕の力強さや、耳もとでささやいてくれる、低く、すこしかすれたような声。竜族にとっての「つがいの相手」は、永遠の愛を誓う言葉だ。その言葉の響きが、胸を温めてくれた。
だが、
最後に見たデイミオンの顔は、胸が痛くなるほど優しい微笑みだった。そのことを思い出すと、なぜか胸騒ぎがする。どうしようもなく不安に駆られてしまう。
(早く迎えに来て)
祈るような思いで待っていると、耳障りな金属音とともに扉が開いた。ずかずかと近づいてくる赤い長衣 の男たち。その先頭に立つエサルに、思わず緊張で身体が固くなった。信頼できる王佐だと思っていたのに、いまや彼はリアナをデーグルモールと断じ、処刑したがっている。タマリスでの権力よりも自身の領地や領民を守ることを重要と考える彼の美点が、こんな形で裏目に出るとは思っていなかった。
だが、エサルは先だってのようにリアナを糾弾することはせず、ただ間近まで来てじろじろと彼女を観察しているだけだった。満足するまで確認すると、連れてきた兵士たちにそのまま見張りを続けるよう言い残して出ていってしまう。
(なんなの?……)
自分がデーグルモールと化していくのを、わざわざ見に来ているとも思えない。兵士たちを置いていったということは、なにか不測の事態が起こったのだろうか?
いぶかしみながらも、デイミオンに何事もありませんようにと祈っていると、荷袋が落ちるようなどさりと重い音がした。はっと目を向けると、一人の兵士がその場にくずおれるのが見えた。「なに……」
背後にいる、もう一人の兵士がすばやく動いた。
その兵士は、音に驚いてふりむいた兵士の耳をつかんで下に引きおろしたかと思うと、そのまま顔面を膝蹴りした。さらにあごの下から左手を当てて跳ねあげると、男はのけぞって倒れた。あまりの速度に顔面から飛び散った血が玉となり、宙に浮いて見えた。
男が握った剣が落ち、がらんと大きな音を立てる。その兵士は剣を足でおさえて反響を止めた。
剣を使うことなく、体術のみで二人の兵士をまたたく間に戦闘不能に陥らせる。そんなことができる男を、リアナは一人しか知らない。
「フィル!」
男は足早に彼女のそばにくると、口元をそっとおさえた。
「しっ、静かに」
大きな手のひらの下で、リアナはもがく。「どうして、あなたが――」
言いかけて、すぐに事態を悟った。もし、デイミオンが本当に自分を城から逃がしたいと思ったら、彼みずから連れて逃げることはしないだろうと。追っ手をふせぎ、情報を送り、彼女の立場を守るために、彼はきっと残るだろう。
「デイミオンがそうしろと言ったのね」震える声でリアナは尋ねた。「あなたにしかできないから」
「ええ」フィルは短く言った。「じき、兵が集まってくる。急がなければ。……あなたを抱えて、城壁を降ります」
事情は想像できたが、それでも、デイミオンが来てくれなかったことをすぐには受けとめられなかった。
「もういや」子どものように首を振る。
「デイと離ればなれになるのは、もういやなの」
フィルはリアナの泣き言を気にした風もなく、彼女の腕を掴んだまま、窓の近くまで引きずっていった。
「麻袋に詰めてでも連れていきますが、あなたの協力があったほうが、楽ですね」
窓の下に目を走らせながら、そう言う。冷たい彼の口調が、イーゼンテルレの宮廷で再会したときのことを思い起こさせた。間諜 と断じられて、人間の国で処刑されていてもおかしくなかっただけに、無事帰ってこれたのだとうれしくもあるが、あれだけ人を心配させておいてという怒りもあった。そんな気持ちが自分に残っていたこと自体が新鮮な驚きだった。
リアナは気を引き締めた。デイミオンも、フィルも、自分を助けようとしてくれている。自己憐憫に浸っている暇はないのだ。「……待って、もっといい方法があるわ」
フィルは何も言わず、片方の眉だけを器用に上げてみせた。
「ここから飛び降りればいい。レーデルルの力で、空気でクッションを作って着地する。そのほうが早いでしょう?」
「いい案だ。力は使えますか?」
「大丈夫」
胸骨のあたりに手を触れてみる。デイミオンが送ってくれる〈呼 ばい〉の力が、白竜 の力を、すぐ近くに感じる。デイミオンの力がもっとも強いが、ナイルからの〈呼 ばい〉は、彼のほうが力の上流にあるために、よりはっきりしている。
切れぎれに、彼らが直面している出来事がイメージとして伝わってきた。ナイルは竜舎にいて、エサルの兵士たちと対峙している。彼の隣にいる侍女はルーイだ。デイミオンも竜騎手たちを連れ、そちらに足早に向かっている。
竜騎手たちに命じて事態を混乱させながら、そ知らぬふりで兵士たちの報告を受け、閣僚たちには事態を収拾するという正反対の命令を出し……
〔デイミオン〕リアナは呼びかけた。ぼんやりした応答の意識が返ってきたが、はっきりした言葉にはなっていない。その余裕はないのだろう。
フィルが窓を開け、枠に手をかけて登ると、階下を見下ろした。防犯のために植え込みも木も、姿を紛らせそうなものはない。リアナは大気の状態を読んだ。気温と湿度。上空を流れる雲がなくても、その流れが見えている。手はじめに、指を振って風を呼び、不寝番の大きなかがり火を消した。暗闇が庭に満ち、兵士たちがせわしなく行き来する声だけになった。そして、大気中の水分を集め、急激に温度を下げる。
まもなく、白いもやのようなものが漂いはじめ、霧が発生した。いくらかは、彼らを隠してくれるだろう。
「じゃあ、俺が先に降ります。風を出してください」
フィルは窓枠に手をかけ、眼下に身を乗り出した。その平気な顔が憎らしく、リアナは腹いせに意地悪く言った。
「わたしを信じてる? 落ちたら死ぬわよ」
「信じてますよ。……いつでも」
フィルは謎めいた笑みで返し、ためらいなく飛び降りた。その瞬間に、リアナは力を開放し、彼と地面との間に大量の風を送り込んだ。フィルは手足を大きく広げ、何度かばたつかせてうまくバランスを取り、ほとんど音もなく着地した。
フィルが立っていた窓枠に立ち、下を見ると、目がくらむほど高い。竜の背に乗って飛ぶときにはなんでもない高さが、一人のときには恐ろしく感じる。大きく深呼吸した。
〔デイミオン、行くわ、あなたがそうしろと言ってくれたから、フィルと逃げる〕
最後にもう一度、そう呼びかけた。誰に読みとられようともかまわないと思った。
〔きっとどこかに解決策がある。それを探すわ。そして戻ってくる。デイミオン、デイ、愛してる、あなたも無事で〕
そうして、思いきって飛び降りた。
デイミオンが部屋を立ち去ってから、半刻近く経っているのは間違いない。窓から見える月はまだ低い位置にあるが、窓枠のなかをゆっくりと移動している。氷が融けて部屋もまた水浸しになっており、彼が灯していった燭台の明かりを受けて、ぽた、ぽた、と水音が続いている。
意識はとてもはっきりしていた。
ずっと感じていた飢えと渇きがやわらぎ、体温が戻り、そしてようやくものを考えられるようになった。長いあいだ、水のなかに閉じこめられていたように外界がぼんやりと遠く感じられていたのだが、それすら自覚していなかった。彼が来るのがもう少し遅かったら、おそらく完全にデーグルモールに変化してしまったのではないかと思うと恐ろしい。
(でも、もう大丈夫だ)
祈るように言い聞かせる。
(デイミオンが来てくれた。彼がいれば、自分を保っていられる。これ以上、デーグルモールみたいにならずに済む)
おまじないのように、口のなかで彼の名前を何度もつぶやく。そうするとすこし気持ちが落ち着いてきた。抱きしめてくれる腕の力強さや、耳もとでささやいてくれる、低く、すこしかすれたような声。竜族にとっての「つがいの相手」は、永遠の愛を誓う言葉だ。その言葉の響きが、胸を温めてくれた。
だが、
いったいどうやって
、自分はもとに戻ったのだろう
。最後に見たデイミオンの顔は、胸が痛くなるほど優しい微笑みだった。そのことを思い出すと、なぜか胸騒ぎがする。どうしようもなく不安に駆られてしまう。
(早く迎えに来て)
祈るような思いで待っていると、耳障りな金属音とともに扉が開いた。ずかずかと近づいてくる赤い
だが、エサルは先だってのようにリアナを糾弾することはせず、ただ間近まで来てじろじろと彼女を観察しているだけだった。満足するまで確認すると、連れてきた兵士たちにそのまま見張りを続けるよう言い残して出ていってしまう。
(なんなの?……)
自分がデーグルモールと化していくのを、わざわざ見に来ているとも思えない。兵士たちを置いていったということは、なにか不測の事態が起こったのだろうか?
いぶかしみながらも、デイミオンに何事もありませんようにと祈っていると、荷袋が落ちるようなどさりと重い音がした。はっと目を向けると、一人の兵士がその場にくずおれるのが見えた。「なに……」
背後にいる、もう一人の兵士がすばやく動いた。
その兵士は、音に驚いてふりむいた兵士の耳をつかんで下に引きおろしたかと思うと、そのまま顔面を膝蹴りした。さらにあごの下から左手を当てて跳ねあげると、男はのけぞって倒れた。あまりの速度に顔面から飛び散った血が玉となり、宙に浮いて見えた。
男が握った剣が落ち、がらんと大きな音を立てる。その兵士は剣を足でおさえて反響を止めた。
剣を使うことなく、体術のみで二人の兵士をまたたく間に戦闘不能に陥らせる。そんなことができる男を、リアナは一人しか知らない。
「フィル!」
男は足早に彼女のそばにくると、口元をそっとおさえた。
「しっ、静かに」
大きな手のひらの下で、リアナはもがく。「どうして、あなたが――」
言いかけて、すぐに事態を悟った。もし、デイミオンが本当に自分を城から逃がしたいと思ったら、彼みずから連れて逃げることはしないだろうと。追っ手をふせぎ、情報を送り、彼女の立場を守るために、彼はきっと残るだろう。
「デイミオンがそうしろと言ったのね」震える声でリアナは尋ねた。「あなたにしかできないから」
「ええ」フィルは短く言った。「じき、兵が集まってくる。急がなければ。……あなたを抱えて、城壁を降ります」
事情は想像できたが、それでも、デイミオンが来てくれなかったことをすぐには受けとめられなかった。
「もういや」子どものように首を振る。
「デイと離ればなれになるのは、もういやなの」
フィルはリアナの泣き言を気にした風もなく、彼女の腕を掴んだまま、窓の近くまで引きずっていった。
「麻袋に詰めてでも連れていきますが、あなたの協力があったほうが、楽ですね」
窓の下に目を走らせながら、そう言う。冷たい彼の口調が、イーゼンテルレの宮廷で再会したときのことを思い起こさせた。
リアナは気を引き締めた。デイミオンも、フィルも、自分を助けようとしてくれている。自己憐憫に浸っている暇はないのだ。「……待って、もっといい方法があるわ」
フィルは何も言わず、片方の眉だけを器用に上げてみせた。
「ここから飛び降りればいい。レーデルルの力で、空気でクッションを作って着地する。そのほうが早いでしょう?」
「いい案だ。力は使えますか?」
「大丈夫」
胸骨のあたりに手を触れてみる。デイミオンが送ってくれる〈
通路
をつながりやすくしてくれているのがわかる。切れぎれに、彼らが直面している出来事がイメージとして伝わってきた。ナイルは竜舎にいて、エサルの兵士たちと対峙している。彼の隣にいる侍女はルーイだ。デイミオンも竜騎手たちを連れ、そちらに足早に向かっている。
竜騎手たちに命じて事態を混乱させながら、そ知らぬふりで兵士たちの報告を受け、閣僚たちには事態を収拾するという正反対の命令を出し……
〔デイミオン〕リアナは呼びかけた。ぼんやりした応答の意識が返ってきたが、はっきりした言葉にはなっていない。その余裕はないのだろう。
フィルが窓を開け、枠に手をかけて登ると、階下を見下ろした。防犯のために植え込みも木も、姿を紛らせそうなものはない。リアナは大気の状態を読んだ。気温と湿度。上空を流れる雲がなくても、その流れが見えている。手はじめに、指を振って風を呼び、不寝番の大きなかがり火を消した。暗闇が庭に満ち、兵士たちがせわしなく行き来する声だけになった。そして、大気中の水分を集め、急激に温度を下げる。
まもなく、白いもやのようなものが漂いはじめ、霧が発生した。いくらかは、彼らを隠してくれるだろう。
「じゃあ、俺が先に降ります。風を出してください」
フィルは窓枠に手をかけ、眼下に身を乗り出した。その平気な顔が憎らしく、リアナは腹いせに意地悪く言った。
「わたしを信じてる? 落ちたら死ぬわよ」
「信じてますよ。……いつでも」
フィルは謎めいた笑みで返し、ためらいなく飛び降りた。その瞬間に、リアナは力を開放し、彼と地面との間に大量の風を送り込んだ。フィルは手足を大きく広げ、何度かばたつかせてうまくバランスを取り、ほとんど音もなく着地した。
フィルが立っていた窓枠に立ち、下を見ると、目がくらむほど高い。竜の背に乗って飛ぶときにはなんでもない高さが、一人のときには恐ろしく感じる。大きく深呼吸した。
〔デイミオン、行くわ、あなたがそうしろと言ってくれたから、フィルと逃げる〕
最後にもう一度、そう呼びかけた。誰に読みとられようともかまわないと思った。
〔きっとどこかに解決策がある。それを探すわ。そして戻ってくる。デイミオン、デイ、愛してる、あなたも無事で〕
そうして、思いきって飛び降りた。