竜の出産とデイミオン卿の憂さ晴らし ①
文字数 2,799文字
ⅰ.
城についてから数日というもの、レーデルルにあまり元気がない。
リアナが観察するかぎり、食べる量が少なく、便がゆるく、目やにが多い。古竜は環境の変化に弱いそうだから、そのせいかもしれない。二、三日は自室で様子を見ていたが、やはり気になり、城の竜舎 につれていくことにした。竜医師はあいにく、竜の出産で手が空かないということだったが、助手の青年が代わりに診てくれると言ってくれた。
日当りのいい城内に比べると、岩場を洞窟のように掘削 して作られた竜舎は薄暗く、ひんやりしている。診察室はその片隅にあった。場所のせいか、どこか隠れ里の住居を思わせ、リアナは懐かしさと悲しさが入り混じったような気持ちになった。
成竜が使えるような大きな診察台にちょこんと座らされ、レーデルルはおとなしく青年に診察されていた。飼い主に似たのか、ルルは古竜にしてはあまり気性が激しくなく、のんびりした性格だ。人見知りもしないので、竜医師にとっては診察しやすいだろう。タビサと名乗った助手の青年はひょろっと細身で、医師であることを示すローブはまだ短く、眼鏡を掛けていた。竜族には遠視は多いが、近眼は珍しい。その珍しい眼鏡のずれを指でなおして、油紙に包んで持ってきた便も念入りに調べている。
「今夜はこの竜をお預かりしてもかまいませんか?」
診察が終わると、タビサはレーデルルを胸に抱いたままそう尋ねた。「夜には先生が帰ってくるので、念のため、お見せしておきたいと思いまして」
リアナはうなずいた。「よろしくお願いします」
自室に戻ってくると、フィルがお茶の準備をしているところだった。
「それで、助手の人はなんて?」
「神経性の軽い胃腸炎だろうって。念のため、竜医師の先生に診せてくれるって。今夜は竜舎にお泊りなの」
「それなら、安心ですね」
温められたポットからリンゴの香りが漂ってくる。竜母草 とリンゴのお茶らしい。
王城に入ってからというもの、人目があるときには、フィルは決してリアナの前で椅子に座らなかった。彼なりの礼儀の表し方なのだろうが、距離を感じるのはどうも辛い。いまは侍女もなく自室に二人きりなので、ティーテーブルに向かいあって座ってくれていた。
「でも、どうしたんでしょうね」
「旅の疲れもあったかもしれないし……生まれてからずっと隠れ里で育った仔 だから。環境が変わったせいかも……」
「そうかもしれない。古竜は環境の変化に弱いと言いますよね」
「うん。でも、生まれてからほとんど病気をしなかったから、心配で」
「そろそろ、一歳になるんでしたっけ?」
リアナはうなずいて、遠い目をした。「……すこし、昔話をしてもいい?」
「もちろん。ぜひ聞きたいな」
それは、竜の生まれた冬の話だった。
養い親のイニから雛を抱かせてもらったとき、リアナはその軽さと小ささに驚いた。
(本当にこんな小さな雛が、あんな大きな古竜になるのかな)
もちろんいつまでも触らせてもらえるわけではなく、雛はイニの手ですぐに母竜の元に戻された。
天敵と呼べるような生き物が他にいないせいかもしれないが、竜は子育てに関心の薄い種族で、まだ羽も生えそろわない幼竜 を平気でほったらかしたりする。そのあとは飼育人たちが代わりに幼竜を育て、餌の取りかたや飛びかた、仲間を呼ぶ声の出しかたなどを教えるのだ。もしイニのような飼育人がいなかったら、オンブリアの竜はもっと早く絶滅していただろう。
母竜のロクサナは、血統がよく人気のある白い古竜だった。本来だったらこんな、人間の国との国境に近い田舎などではなく、首都タマリスの王の竜舎で大切に飼育されているような貴婦人だ。好みのうるさいこの美女は、気候が良くて暖かい南の田舎をお気に召したらしく、もう長いこと首都を離れて飼い主を悲しませていた。貴族たちにとって、竜は自身の権勢を誇る最高のパートナーだが、かれらは決して竜族の思いのままに動くことはしない。
前の子どものときにもすぐに子育てを放棄してしまったので、すぐに飼育人が必要となりそうだとイニは予想していた。それで、飼育人になりたいとせがんでいたリアナに彼女の仔 を触らせてやったのだ。幼竜は人の匂いを感知しないが、母竜はその匂いを飼育人だと判断し、警戒心を解いてくれる。
満月のきれいなある晩に、ロクサナは竜舎を飛びたっていった。子育てよりも大切な用事かと思いきや、数里離れた山中で仲間の竜とともに歌を歌ったり、滝遊びをしたりと優雅に過ごしているらしい。里に荷物を運んでくる飛竜乗りが時々見かけてそう教えてくれた。竜とはそういう生き物なのだ。
ともあれ、彼女の残した幼竜は三頭いて、それぞれに飼育人が必要だった。ロクサナは美しくて体も大きいので、彼女の仔 はみな貴族の引き取り手が殺到していた。竜族の貴公子たちに引き渡すまでにはまだかなりの期間飼育が必要で、その飼育人には高い技術が求められた。イニが選んだ三人のうち二人はこれまでに四、五柱の古竜を育て上げたエキスパートだ。リアナはまったくの初心者だが、これまでにもイニの仕事を見てきているし、また彼が補佐につけば心配はないだろうと飼育人たちも太鼓判を押してくれた。
リアナが選んだのは、いかにも少女が好みそうなかわいらしい真っ白な幼竜だった。彼女は幼竜にレーデルルと名づけた。
今でも覚えているが、その年の冬はよく働いた。飛竜舎のほうで孵化の成功率が高く、十羽近い雛が一時期に孵ったからで、里に数人しかいない飼育人たちは大忙しだったのだ。イニもその例に漏れず、竜舎に泊まりこむ日が多かったが、手伝うリアナは楽しくてあまり苦にはならなかった。
その頃のことを、彼女は今でも時折思いだす――竜は火を怖がらないので、竜舎の中は冬でも人間の家と変わらないほど暖かい。食べそこなった昼食のパンに差し入れのハムとチーズを挟んで火で炙 ったものと、湯で薄めたホットワインの夜食。夕飯のシチューの残りを使ったシェパード・パイはおいしくて、いつも競争になったっけ。聞こえてくるのは、酒が入った大人たちのくだらない噂話と笑い声のまじるざわめき。竜たちの満足した調子の低いうなり声。リアナ自身も幼竜の世話に追われ、夜にはぐったりしてしまうことが多かった。手仕事をしているイニの横で、古いが清潔な毛布にくるまって休んでいると、養い親はあれこれと面白い話をしてくれた。彼自身が行ったことのある異国の地の話も大好きだったが、一番はやはり、いにしえの女王オンファレの話だ。妖精の国の美しく賢い女王が、魔法使いの青年に助けられながら国の危機を救うというもので、歳によらず空想家らしいイニの語り口のおかげでケイエの芝居小屋にも負けないほどはらはら、わくわくしたものだ。
手足は重く疲れているが、心は満足して、安心しきって眠っていられた夜のことは、今でも懐かしい。
城についてから数日というもの、レーデルルにあまり元気がない。
リアナが観察するかぎり、食べる量が少なく、便がゆるく、目やにが多い。古竜は環境の変化に弱いそうだから、そのせいかもしれない。二、三日は自室で様子を見ていたが、やはり気になり、城の
日当りのいい城内に比べると、岩場を洞窟のように
成竜が使えるような大きな診察台にちょこんと座らされ、レーデルルはおとなしく青年に診察されていた。飼い主に似たのか、ルルは古竜にしてはあまり気性が激しくなく、のんびりした性格だ。人見知りもしないので、竜医師にとっては診察しやすいだろう。タビサと名乗った助手の青年はひょろっと細身で、医師であることを示すローブはまだ短く、眼鏡を掛けていた。竜族には遠視は多いが、近眼は珍しい。その珍しい眼鏡のずれを指でなおして、油紙に包んで持ってきた便も念入りに調べている。
「今夜はこの竜をお預かりしてもかまいませんか?」
診察が終わると、タビサはレーデルルを胸に抱いたままそう尋ねた。「夜には先生が帰ってくるので、念のため、お見せしておきたいと思いまして」
リアナはうなずいた。「よろしくお願いします」
自室に戻ってくると、フィルがお茶の準備をしているところだった。
「それで、助手の人はなんて?」
「神経性の軽い胃腸炎だろうって。念のため、竜医師の先生に診せてくれるって。今夜は竜舎にお泊りなの」
「それなら、安心ですね」
温められたポットからリンゴの香りが漂ってくる。
王城に入ってからというもの、人目があるときには、フィルは決してリアナの前で椅子に座らなかった。彼なりの礼儀の表し方なのだろうが、距離を感じるのはどうも辛い。いまは侍女もなく自室に二人きりなので、ティーテーブルに向かいあって座ってくれていた。
「でも、どうしたんでしょうね」
「旅の疲れもあったかもしれないし……生まれてからずっと隠れ里で育った
「そうかもしれない。古竜は環境の変化に弱いと言いますよね」
「うん。でも、生まれてからほとんど病気をしなかったから、心配で」
「そろそろ、一歳になるんでしたっけ?」
リアナはうなずいて、遠い目をした。「……すこし、昔話をしてもいい?」
「もちろん。ぜひ聞きたいな」
それは、竜の生まれた冬の話だった。
養い親のイニから雛を抱かせてもらったとき、リアナはその軽さと小ささに驚いた。
(本当にこんな小さな雛が、あんな大きな古竜になるのかな)
もちろんいつまでも触らせてもらえるわけではなく、雛はイニの手ですぐに母竜の元に戻された。
天敵と呼べるような生き物が他にいないせいかもしれないが、竜は子育てに関心の薄い種族で、まだ羽も生えそろわない
母竜のロクサナは、血統がよく人気のある白い古竜だった。本来だったらこんな、人間の国との国境に近い田舎などではなく、首都タマリスの王の竜舎で大切に飼育されているような貴婦人だ。好みのうるさいこの美女は、気候が良くて暖かい南の田舎をお気に召したらしく、もう長いこと首都を離れて飼い主を悲しませていた。貴族たちにとって、竜は自身の権勢を誇る最高のパートナーだが、かれらは決して竜族の思いのままに動くことはしない。
前の子どものときにもすぐに子育てを放棄してしまったので、すぐに飼育人が必要となりそうだとイニは予想していた。それで、飼育人になりたいとせがんでいたリアナに彼女の
満月のきれいなある晩に、ロクサナは竜舎を飛びたっていった。子育てよりも大切な用事かと思いきや、数里離れた山中で仲間の竜とともに歌を歌ったり、滝遊びをしたりと優雅に過ごしているらしい。里に荷物を運んでくる飛竜乗りが時々見かけてそう教えてくれた。竜とはそういう生き物なのだ。
ともあれ、彼女の残した幼竜は三頭いて、それぞれに飼育人が必要だった。ロクサナは美しくて体も大きいので、彼女の
リアナが選んだのは、いかにも少女が好みそうなかわいらしい真っ白な幼竜だった。彼女は幼竜にレーデルルと名づけた。
今でも覚えているが、その年の冬はよく働いた。飛竜舎のほうで孵化の成功率が高く、十羽近い雛が一時期に孵ったからで、里に数人しかいない飼育人たちは大忙しだったのだ。イニもその例に漏れず、竜舎に泊まりこむ日が多かったが、手伝うリアナは楽しくてあまり苦にはならなかった。
その頃のことを、彼女は今でも時折思いだす――竜は火を怖がらないので、竜舎の中は冬でも人間の家と変わらないほど暖かい。食べそこなった昼食のパンに差し入れのハムとチーズを挟んで火で
手足は重く疲れているが、心は満足して、安心しきって眠っていられた夜のことは、今でも懐かしい。