8-2. マリウスとリアナ ②
文字数 2,479文字
「妖精女王オンファレの話を忘れてしまったのか? 魔術師ととこしえの国の夢を? それがここにあるのだよ。おまえが望めば、冬の女王の座はおまえのものだ。私はおまえを、竜族よりはるかに長命で健康な女王にしてやりたいと願っていたのだ。クローナンは反対しているが……」
(そう、それが本音というわけね)リアナは胸中で毒づいた。(クローナン王のほうはいくらかまだ竜族の常識が残っているようだけれど)
老人の姿で彼女を育ててくれていた、あの〈隠れ里〉でのころから、彼の心はここニザランにあったのだ。かつて自分が生まれて育ったオンブリアではなく。率直に言っておとぎ話が嫌いだったわけではない。美しいものはいつでも子どもの心を引きつける。ただ、自分は現実の世界に生きていて、そちらのほうがより大切だという点で、目の前の男とは分かり合えないような気がしてきた。
「あなたが生きていてよかった、イニ」
ここに着いてからずっと言おうと思っていたことを、リアナはやっと切りだした。
「ここで、クローナンと一緒にわたしを助けてくれたことにも感謝してる」
ようやく顔をあげて自分を見つめるマリウスに、続ける。
「でも、あの春〈隠れ里〉を出て戻らなかったあなたのことは許せない。ガエネイスの命を受けたデーグルモールたちが里を狙っていることも、ライダーやその子どもたちがいることも、あなたは全部知っていたうえで里を離れた。でしょ?」
養い親はいくらか衝撃を受けたような顔をした。
「おまえのことは、フィルバートが探しあてて守ったはずだ」
「どうもありがとうとわたしが言うとでも? あなたはわたしの保護者じゃなかったの?」
「……私が連れていくわけにはいかなかった。おまえは竜とともに生きる道を望んでいたからな」
「そうじゃない!」リアナはカウチから立ちあがった。
「メナやアミのことは、どうして守ろうと思わなかったの?! ロッタやハニや、飼育舎のみんなや、里長 や、子どもたち全員が――あなたが名前を知っている、ずっと一緒に暮らしてきた、その全員が死んだのよ! 彼らがあんなにひどく殺されるのを、どうして放っておけたの?」
「私になにができたと言うんだ? あの朽ちかけた古い身体で、遠いニザランから援軍を連れてこいとでも?」
「そうすべきだったわよ!」リアナは手をふって怒鳴った。
「あの日ロッタは、竜騎手 として最後まで子どもたちを守って死んだのよ! あなたにだってなにかできたはずだったのに!」
子どもをなにより大切にし、平和を愛した竜族の男たちと、人間の女性たち。何をおいても子どもたちのことを考えていた里長は、どんな悲痛な思いで彼らを手にかけたのか。そして、ライダーの義務と誇りよりも子どもたちの命を優先し、長年の友だったはずの里長を殺したロッタの心も。それを思うと、リアナは怒りと絶望で目の前が真っ赤に染まっていきそうだった。
「私の竜騎手 としての義務は、おまえの母親にクーデターを起こした時点で終わったよ」
マリウスは冷たく言ってのけた。
「彼らを悼 むふりをするつもりはない。だが、すべて自分の所業だというのも純朴 すぎはしないか?」
リアナはショックで呆然としてしまい、すぐには何も言えなかった。マリウスがなぜか焦った様子で立ちあがり、彼女を抱きよせた。
「……なんてことだ、すまない。おまえを泣かせるなんて……」
そう言われてはじめて、自分の頬が濡れていることに気がついた。
「どうしてそんなことが言えるの? イニ、あなたのことがわからない……」
マリウスの抱擁はまるで父親の温かさで、リアナはそれがよけいに腹立たしかった。この男は、ただ養い子が泣いているのに驚いただけで、自分のやったことの非道さを詫 びているわけではないのだ。その証拠に、こんなことを言った。
「私とおまえでは、住む世界も見ているものも違うのだ。……命の重さに優劣はないが、個人としての私は、〈鉄の王〉としてニザランに住む民のことだけを大切に考えるようにできている。例外があるとすれば、おまえだけだ」
「……あなたのそのもの言いはキノコのせいなの? 身体から引き抜いてやりたいわ」
「……泣くな」マリウスは抱擁を強めて、彼女のつむじに向かって低い声でささやいた。「おまえが泣くと、こたえる」
「あなたに竜族の感情なんかないのよ」なおも強がったが、涙はとまらなかった。アミとのくだらないケンカも、メナのまずい竜肉シチューの味ももう思いだすのが難しくなってきていて、それがリアナには恐ろしい。自分はこうやって死者たちに置いていかれるのだと思ってしまう。だのに、この男にはそれがわからないと言うのだ。
「人の世のことは、昔から不得手だった。おまえはデイミオン卿と
リアナは鼻をすすった。「そうよ」
「だが、フィルバートはどうするんだ? あれはおまえを愛しているようだが」
「知ってるわ。……だから、彼を利用しているのよ。いまいましいゾンビ病を治して、デイミオンのもとに帰るために。つかず離れず、気を持たせるようなことを言って」
つむじに唇を寄せてマリウスが尋ねた。「……なぜそう泣く?」
「フィルバートは、おまえに利用されたからといって恨んだりするような男でもあるまい? おまえが命じれば、炎の海に飛びこんで笑って死ぬだろうよ」
「でも、それが嫌なのよ。どうしてわからないの?」
マリウスはめずらしく口を閉じて、養い子の背中を撫でながら、なにかを考えているようだった。
リアナは涙が落ち着くのを待ってマリウスの腕からはなれ、食事用のナプキンで顔を拭いた。こんなみっともない姿をデイミオンが見たらどんなにか笑うだろうと思った。あるいは真面目な顔で抱きしめるかもしれない。
「フィルに幸せになってほしいわ。竜族の男性として、彼にふさわしい名誉を得てほしい。夫や父親になって、家族に囲まれて笑って死んでほしいの。王を守って死ぬ名誉じゃなくて……」
「あのエリサから生まれて、私が育てたのに、おまえは善良だな」
しばらくして、マリウスはぽつりとそう言った。
(そう、それが本音というわけね)リアナは胸中で毒づいた。(クローナン王のほうはいくらかまだ竜族の常識が残っているようだけれど)
老人の姿で彼女を育ててくれていた、あの〈隠れ里〉でのころから、彼の心はここニザランにあったのだ。かつて自分が生まれて育ったオンブリアではなく。率直に言っておとぎ話が嫌いだったわけではない。美しいものはいつでも子どもの心を引きつける。ただ、自分は現実の世界に生きていて、そちらのほうがより大切だという点で、目の前の男とは分かり合えないような気がしてきた。
「あなたが生きていてよかった、イニ」
ここに着いてからずっと言おうと思っていたことを、リアナはやっと切りだした。
「ここで、クローナンと一緒にわたしを助けてくれたことにも感謝してる」
ようやく顔をあげて自分を見つめるマリウスに、続ける。
「でも、あの春〈隠れ里〉を出て戻らなかったあなたのことは許せない。ガエネイスの命を受けたデーグルモールたちが里を狙っていることも、ライダーやその子どもたちがいることも、あなたは全部知っていたうえで里を離れた。でしょ?」
養い親はいくらか衝撃を受けたような顔をした。
「おまえのことは、フィルバートが探しあてて守ったはずだ」
「どうもありがとうとわたしが言うとでも? あなたはわたしの保護者じゃなかったの?」
「……私が連れていくわけにはいかなかった。おまえは竜とともに生きる道を望んでいたからな」
「そうじゃない!」リアナはカウチから立ちあがった。
「メナやアミのことは、どうして守ろうと思わなかったの?! ロッタやハニや、飼育舎のみんなや、
「私になにができたと言うんだ? あの朽ちかけた古い身体で、遠いニザランから援軍を連れてこいとでも?」
「そうすべきだったわよ!」リアナは手をふって怒鳴った。
「あの日ロッタは、
子どもをなにより大切にし、平和を愛した竜族の男たちと、人間の女性たち。何をおいても子どもたちのことを考えていた里長は、どんな悲痛な思いで彼らを手にかけたのか。そして、ライダーの義務と誇りよりも子どもたちの命を優先し、長年の友だったはずの里長を殺したロッタの心も。それを思うと、リアナは怒りと絶望で目の前が真っ赤に染まっていきそうだった。
「私の
マリウスは冷たく言ってのけた。
「彼らを
リアナはショックで呆然としてしまい、すぐには何も言えなかった。マリウスがなぜか焦った様子で立ちあがり、彼女を抱きよせた。
「……なんてことだ、すまない。おまえを泣かせるなんて……」
そう言われてはじめて、自分の頬が濡れていることに気がついた。
「どうしてそんなことが言えるの? イニ、あなたのことがわからない……」
マリウスの抱擁はまるで父親の温かさで、リアナはそれがよけいに腹立たしかった。この男は、ただ養い子が泣いているのに驚いただけで、自分のやったことの非道さを
「私とおまえでは、住む世界も見ているものも違うのだ。……命の重さに優劣はないが、個人としての私は、〈鉄の王〉としてニザランに住む民のことだけを大切に考えるようにできている。例外があるとすれば、おまえだけだ」
「……あなたのそのもの言いはキノコのせいなの? 身体から引き抜いてやりたいわ」
「……泣くな」マリウスは抱擁を強めて、彼女のつむじに向かって低い声でささやいた。「おまえが泣くと、こたえる」
「あなたに竜族の感情なんかないのよ」なおも強がったが、涙はとまらなかった。アミとのくだらないケンカも、メナのまずい竜肉シチューの味ももう思いだすのが難しくなってきていて、それがリアナには恐ろしい。自分はこうやって死者たちに置いていかれるのだと思ってしまう。だのに、この男にはそれがわからないと言うのだ。
「人の世のことは、昔から不得手だった。おまえはデイミオン卿と
つがい
になったのか?」リアナは鼻をすすった。「そうよ」
「だが、フィルバートはどうするんだ? あれはおまえを愛しているようだが」
「知ってるわ。……だから、彼を利用しているのよ。いまいましいゾンビ病を治して、デイミオンのもとに帰るために。つかず離れず、気を持たせるようなことを言って」
つむじに唇を寄せてマリウスが尋ねた。「……なぜそう泣く?」
「フィルバートは、おまえに利用されたからといって恨んだりするような男でもあるまい? おまえが命じれば、炎の海に飛びこんで笑って死ぬだろうよ」
「でも、それが嫌なのよ。どうしてわからないの?」
マリウスはめずらしく口を閉じて、養い子の背中を撫でながら、なにかを考えているようだった。
リアナは涙が落ち着くのを待ってマリウスの腕からはなれ、食事用のナプキンで顔を拭いた。こんなみっともない姿をデイミオンが見たらどんなにか笑うだろうと思った。あるいは真面目な顔で抱きしめるかもしれない。
「フィルに幸せになってほしいわ。竜族の男性として、彼にふさわしい名誉を得てほしい。夫や父親になって、家族に囲まれて笑って死んでほしいの。王を守って死ぬ名誉じゃなくて……」
「あのエリサから生まれて、私が育てたのに、おまえは善良だな」
しばらくして、マリウスはぽつりとそう言った。