1-4. 凍りつく世界のなかで ②
文字数 2,735文字
「来ないで……」
床の一部が盛りあがって鋭い氷柱となり、彼の行く手を阻んだ。かまうことなく前に進む。氷柱が結晶のように花開くなかに、彼女がいた。
キィンと高い音が響き、氷の剣が風を切って迫ってきた。デイミオンは避けなかった。アーダルの炎が、それを一瞬で白いもやに変えるさまを、リアナの灰色の目がぼんやりと追った。
デイミオンは彼女だけを見ていた。その異形の姿を。
髪はもつれたまま凍り、白かったはずのドレスは灰色に薄汚れている。だがそれよりも、露出した肌のほぼすべてを覆う、呪われた樹木のような黒い紋様が目を引いた。唇が拒絶の形に動いたが、そのときにはもう彼の腕のなかに閉じ込められていた。
「リアナ」
彼女とともに、なかば床にくずおれるようにしながら、何度も名前を呼んだ。「大丈夫だ、もう大丈夫だから……」
なにが大丈夫なのか自分でもわからなかったが、ただ、そう繰りかえした。
二人はそのまま、しばらく無言で抱きあっていた。イーゼンテルレの、あの温室の輝きはどこにもなく、二人とも傷ついて、ぼろぼろだった。海に投げ出され、溺れないように互いにしがみついているかのような抱擁だった。
「……デイミオン」ようやく、かすれた声がそう呟くのが聴こえた。片手で顔を持ちあげるが、灰色の目はうつろだった。
「リアナ、私のつがいの相手はおまえだ。おまえがいなければ王も王国もない。わかるな?」
リアナは、魂が抜けたように頼りない顔でうなずいた。デイミオンも泣き笑いのような笑みを返した。「……いい子だ」
それから、凍るまつげにふちどられた彼女の目を、自分の手のひらで覆った。「目を閉じて、口を開けて」
彼女は言われたとおりにした。
「飲むんだ」
口のなかに直接そそぎこんだものが、素直に飲み下された。デイミオンは苦痛にしかめた顔が見えていないことを祈った。
「温かいわ」彼女が呟いた。「甘い」
恐る恐る手をはずすと、開かれた目は元の色に戻っていた。デイミオンは詰めていた息を吐いた。
一か八かの賭けだ、と
この処置が効いたということは、彼女がデーグルモールであるということはもはや疑いがなかった。そのことを知って絶望する一方で、もし本当にデーグルモールなら、ヒトの心臓が止まっているはずだとも思う。瞳の色も戻るはずがない。前にも〈生命の紋〉はあらわれ、一度は消えた。これらは、彼女がまだ完全には
「希望はある」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
スミレ色に戻った瞳から、思い出したように、涙がぽろぽろとこぼれた。それと同時に、〈呼 ばい〉が強く戻ってきたのを感じる。鼓動が弱いので、体温を分け与えるように抱きなおす。
「わたし、きっともう死んでいたんだわ」リアナは涙声でそう告げた。「里が襲われたときに。あのときに死んで、そしてデーグルモールに……」
「おまえは
「竜の心臓も、ヒトの心臓も動いているんだ。デーグルモールのはずがない。俺が証明してやる。五公にも、誰にも、何も言わせない」
「なにもかも凍ってしまうの」
「そのたびに融 かせばいい」
「ヒトの食事が食べられないの。なにも食べなくても動けるの。でも、気づいたら、生きたネズミを――」
「何を食べていてもいい」
「希望はある」彼は繰りかえした。「フィルバートが持って帰ったものだ」
「フィルが……」
腕のなかのリアナが、なにごとかを忙しく考えはじめたのがわかった。いつもの彼女のように。「フィルは無事なのね?」
「ああ。この城のなかにいる」
ため息とともに、彼女が力を抜くのが感じられた。「よかった……」
「必ず方法があるはずだ。絶対に探してみせる……だから、リア、生き延びてくれ。おまえのためだけじゃない、俺のために。『もう死んでいる』なんて、二度と口にするな」
リアナは彼を見上げ、うなずいた。「わかったわ」
「いい子だ」湿ったままの金髪に唇を押しあてる。「夜にはここを出る。支度をするんだ」
外では、夜の帳 が降りようとしていた。
♢♦♢
「デイミオン卿!」
王の間から出ると、まっさきにナイルが駆け寄ってきた。「リアナ陛下は――」
「無事だ」短く言う。
「ナイル卿、竜祖と貴殿の白竜にかけて。打ち合わせのとおり、やってくれるな?」
「はい」青年は力強くうなずくと、用意した品物をデイミオンに渡し、身をひるがえして走っていった。
デイミオンはそのまま、庭を突っ切って幽閉の塔へ向かった。訪問の理由を尋ねる兵士に、「賊が立ち入った。警備の確認だ」と言って通る。
「そのような報告は、まだ――」
「竜舎で騒ぎが起こっている。こちらに来ないとも限らん」と鋭く言う。「警備を怠るな」
「はっ」
きびきびと戻っていく兵士に見送られて内部を進む。口実は適当なものだったが、それほど長く時間を稼ぐ必要はないので、構わないだろう。
アーシャが釈放されたので、その塔にいるのは一人の囚人だけだった。
エンガスとの関係上、デイミオンは一度ならずアーシャを訪ねる機会があったので、もうひとつの独房が彼女のものとはかなり異なり、さらに厳重に警備されていることを知っていた。体力のない小柄な女性とは違い、その独房にいるのは国内随一の剣の使い手で、デイミオンが知る限り最高の兵士だった。どれほど厳重に警備しても十分とは言えないだろう。
階段は内壁の一面に沿うようにらせん状に伸びていた。内部構造は、大きな梁と小さな三角形の骨組みで床板を支える形式になっており、それが何層にも積み重なって各階の部屋を形作っている。監視しやすく、逃亡しにくい構造だ。
大丈夫だろうか、とふとよぎる不安をすぐに打ち消す。これ以外の方法はない。
デイミオンが衛兵に案内されて中に入りこんできたとき、フィルは日課の柔軟運動をしているところだった。どんなときでも、体の柔軟性は身を助けるというのが、剣士としての彼の信条だ。ちょうど膝の屈伸運動の八十回目あたりだったが、後ろで扉が開くと、瞬間的に手をわきにやった。しかし、もちろんそこに剣はない。
中に入らないよう衛兵に命じて、デイミオンは単刀直入に言った。「ここから出ろ。時間がない」
「そうだろうとも」フィルは応答した。
何があったのかはほとんどわからなかったが、何があっても対処はできる。フィルバート・スターバウにとっては、いかなるときでも、そうだった。
床の一部が盛りあがって鋭い氷柱となり、彼の行く手を阻んだ。かまうことなく前に進む。氷柱が結晶のように花開くなかに、彼女がいた。
キィンと高い音が響き、氷の剣が風を切って迫ってきた。デイミオンは避けなかった。アーダルの炎が、それを一瞬で白いもやに変えるさまを、リアナの灰色の目がぼんやりと追った。
デイミオンは彼女だけを見ていた。その異形の姿を。
髪はもつれたまま凍り、白かったはずのドレスは灰色に薄汚れている。だがそれよりも、露出した肌のほぼすべてを覆う、呪われた樹木のような黒い紋様が目を引いた。唇が拒絶の形に動いたが、そのときにはもう彼の腕のなかに閉じ込められていた。
「リアナ」
彼女とともに、なかば床にくずおれるようにしながら、何度も名前を呼んだ。「大丈夫だ、もう大丈夫だから……」
なにが大丈夫なのか自分でもわからなかったが、ただ、そう繰りかえした。
二人はそのまま、しばらく無言で抱きあっていた。イーゼンテルレの、あの温室の輝きはどこにもなく、二人とも傷ついて、ぼろぼろだった。海に投げ出され、溺れないように互いにしがみついているかのような抱擁だった。
「……デイミオン」ようやく、かすれた声がそう呟くのが聴こえた。片手で顔を持ちあげるが、灰色の目はうつろだった。
「リアナ、私のつがいの相手はおまえだ。おまえがいなければ王も王国もない。わかるな?」
リアナは、魂が抜けたように頼りない顔でうなずいた。デイミオンも泣き笑いのような笑みを返した。「……いい子だ」
それから、凍るまつげにふちどられた彼女の目を、自分の手のひらで覆った。「目を閉じて、口を開けて」
彼女は言われたとおりにした。
「飲むんだ」
口のなかに直接そそぎこんだものが、素直に飲み下された。デイミオンは苦痛にしかめた顔が見えていないことを祈った。
「温かいわ」彼女が呟いた。「甘い」
恐る恐る手をはずすと、開かれた目は元の色に戻っていた。デイミオンは詰めていた息を吐いた。
一か八かの賭けだ、と
彼
に言われていた。事態がより悪化する可能性もあったが、藁にもすがる思いだったのだ。この処置が効いたということは、彼女がデーグルモールであるということはもはや疑いがなかった。そのことを知って絶望する一方で、もし本当にデーグルモールなら、ヒトの心臓が止まっているはずだとも思う。瞳の色も戻るはずがない。前にも〈生命の紋〉はあらわれ、一度は消えた。これらは、彼女がまだ完全には
変容
していないことを示しているのではないか?「希望はある」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
スミレ色に戻った瞳から、思い出したように、涙がぽろぽろとこぼれた。それと同時に、〈
「わたし、きっともう死んでいたんだわ」リアナは涙声でそう告げた。「里が襲われたときに。あのときに死んで、そしてデーグルモールに……」
「おまえは
生きている
」かぼそい背中をさすり上げる。どれほどの涙でも、感情の抜け落ちたようなさっきまでの様子よりははるかに良かった。安堵のあまり、彼までもが涙声になった。「竜の心臓も、ヒトの心臓も動いているんだ。デーグルモールのはずがない。俺が証明してやる。五公にも、誰にも、何も言わせない」
「なにもかも凍ってしまうの」
「そのたびに
「ヒトの食事が食べられないの。なにも食べなくても動けるの。でも、気づいたら、生きたネズミを――」
「何を食べていてもいい」
「希望はある」彼は繰りかえした。「フィルバートが持って帰ったものだ」
「フィルが……」
腕のなかのリアナが、なにごとかを忙しく考えはじめたのがわかった。いつもの彼女のように。「フィルは無事なのね?」
「ああ。この城のなかにいる」
ため息とともに、彼女が力を抜くのが感じられた。「よかった……」
「必ず方法があるはずだ。絶対に探してみせる……だから、リア、生き延びてくれ。おまえのためだけじゃない、俺のために。『もう死んでいる』なんて、二度と口にするな」
リアナは彼を見上げ、うなずいた。「わかったわ」
「いい子だ」湿ったままの金髪に唇を押しあてる。「夜にはここを出る。支度をするんだ」
外では、夜の
♢♦♢
「デイミオン卿!」
王の間から出ると、まっさきにナイルが駆け寄ってきた。「リアナ陛下は――」
「無事だ」短く言う。
「ナイル卿、竜祖と貴殿の白竜にかけて。打ち合わせのとおり、やってくれるな?」
「はい」青年は力強くうなずくと、用意した品物をデイミオンに渡し、身をひるがえして走っていった。
デイミオンはそのまま、庭を突っ切って幽閉の塔へ向かった。訪問の理由を尋ねる兵士に、「賊が立ち入った。警備の確認だ」と言って通る。
「そのような報告は、まだ――」
「竜舎で騒ぎが起こっている。こちらに来ないとも限らん」と鋭く言う。「警備を怠るな」
「はっ」
きびきびと戻っていく兵士に見送られて内部を進む。口実は適当なものだったが、それほど長く時間を稼ぐ必要はないので、構わないだろう。
アーシャが釈放されたので、その塔にいるのは一人の囚人だけだった。
エンガスとの関係上、デイミオンは一度ならずアーシャを訪ねる機会があったので、もうひとつの独房が彼女のものとはかなり異なり、さらに厳重に警備されていることを知っていた。体力のない小柄な女性とは違い、その独房にいるのは国内随一の剣の使い手で、デイミオンが知る限り最高の兵士だった。どれほど厳重に警備しても十分とは言えないだろう。
階段は内壁の一面に沿うようにらせん状に伸びていた。内部構造は、大きな梁と小さな三角形の骨組みで床板を支える形式になっており、それが何層にも積み重なって各階の部屋を形作っている。監視しやすく、逃亡しにくい構造だ。
大丈夫だろうか、とふとよぎる不安をすぐに打ち消す。これ以外の方法はない。
デイミオンが衛兵に案内されて中に入りこんできたとき、フィルは日課の柔軟運動をしているところだった。どんなときでも、体の柔軟性は身を助けるというのが、剣士としての彼の信条だ。ちょうど膝の屈伸運動の八十回目あたりだったが、後ろで扉が開くと、瞬間的に手をわきにやった。しかし、もちろんそこに剣はない。
中に入らないよう衛兵に命じて、デイミオンは単刀直入に言った。「ここから出ろ。時間がない」
「そうだろうとも」フィルは応答した。
何があったのかはほとんどわからなかったが、何があっても対処はできる。フィルバート・スターバウにとっては、いかなるときでも、そうだった。