4-2. 雪山越え ①

文字数 2,628文字

 三日目は、今の二人にとってありがたいことに薄曇りだった。それで昨日の遅れを取り戻すように進み、その日は山のふもとの宿に泊まった。翌朝は、陽が昇る前から行動することができそうだったので、フィルは料理番に頼んでおいた弁当と水筒を受け取った。鞍袋には食料や衣類、毛布を持てるだけ詰めてあるし、自分の荷袋にはお金、薬、地図、通行手形が入っている。武器はわずかだ――いつもの長剣に短剣類が少しと火薬類。もとより、接近戦は避けなければいけない。

「準備はいい?」
 フィルは声をかけた。リアナは巡礼者用の服のうえに、雪山越えのための分厚い外套をまとい、固い手袋を苦労してはめながら応じた。「ええ」
「じゃあ、あの山を越えていきます。その向こうは、あなたの王国の、ニザラン自治領ですよ」

 淡く紫がかった空のほうへめざして竜が登っていくあいだに、空がオレンジとピンクの混じる色合いに染まりはじめた。峠道にはほかの旅行者の足跡や焚火の跡が見えた。このあたりには旅人の便宜のために設けた山小屋もいくつかあり、順当に進めば野宿は二日ほどで済むはずだった。

 だが、軍隊暮らしが長いフィルは油断していなかった。エサル卿は、好機があれば自分ごとリアナを暗殺したいと思っているに違いない。たとえデイミオンがそれを阻止できたとしても、ガエネイス王がタマリスに密偵を放っていたとすれば、やはり白竜の王を捕らえる好機と考えるにちがいなく、いまを逃すとは思えなかった。

 アエディクラの研究者たちが、メドロートとシーリアに対してやったことを思い出すと、腸が煮えるのを通り越していっそ寒気を感じるほどだ。白竜シーリアの力と、その限度を知るための冷酷な生物実験。もしも彼らがリアナを標的にしようとしたら、そのそぶりを見せるだけでも、殺してやる。フィルは冷静に考えた。朝食に卵を食べるかどうか選ぶほどのたやすい決断だった。

 午前の旅程はまず順調で、フィルは距離を稼ぐことよりも周囲の偵察や自分たちの足跡をかき消すことのほうを優先した。ひとつには、リアナの体調が万全でないこともあった――いくらか復活しつつあるとはいえ、無理をして消耗させるわけにはいかない。

 昼には携帯用の調理台を出して茶を淹れ、二人で弁当を食べた。料理番に小金を弾んだので、ぱりっと焼いた香草入りのフラットブレッドに甘辛く煮た細切れ肉、葉野菜にリンゴといった豪勢な具が挟んであった。リアナがめずらしくすべて平らげたのでフィルは胸をなでおろした。おそらく、新鮮な血を摂取することでヒトに近い味覚が戻るのだろう。あくまで一時的にではあるだろうが。

 とすれば、彼女が嫌がるにしても夜にはもう少し血を飲ませたい。どこかのタイミングで間食を取ろうとフィルは決めた。

  ♢♦♢

 もくもくと食事を口に運んでいる青年を、リアナは複雑な思いで見ていた。

 体調はかなり回復したといってよい。今朝などは、ほとんど以前と変わらないくらい健康に感じられた。しかし、それは二日前の晩に彼の血をすすったおかげなのだ。

 自分は、デーグルモールになってしまった。

 デイミオンもフィルも、彼女がまだ竜族の娘だと信じてくれているが、事実として、ここまで普通と違うふうになってしまった自分がもとのリアナ・ゼンデンと同じだと言いきるのは難しいような気がした。今もまだこうやって希望を失わずに旅を進めているが、それは自分のためというよりも、むしろ彼女のために骨身を惜しまず尽くしてくれる二人の男のためのようにも思える。

 フィルバートは、それでもいいと言うのかもしれない。
 だがこの旅が終わるとき、自分は何者になっているのだろうか、とリアナは案じずにはいられなかった。

 道はところどころを折れ、草地のなかを通り、ときには遠くのほうに小川の気配を感じることもあった。水場の近くだからか、鹿の群れとも遭遇した。鹿たちは、通りかかる二人のほうへ首を伸ばし、耳をそばだてて尻尾をぴしりと振ると、一目散に逃げていった。逃げていく先には、もう雪が見える。

 まだ巡礼ルートから外れていないので、登山道はきちんと整備されており、竜の背のリアナにも周囲を見まわす余裕があった。

「きれいね」二度目の休憩中に、そうフィルに声をかけた。
「こんなきれいな景色を、いったい誰が造ったのかしら? 昔ばなしを信じそうになるわ」
「竜祖の話?」
「うん」
 切り立った峰を白く覆う雪や、山頂を隠すようにたなびく雲。空は平地より深く青く、どの方角を見ても山と空とに包まれている。

「はじめに紅竜たちが降り、ほかの竜たちが住めるように土地と海とを作り替えた」フィルが話しだした。「彼らの長く孤独な仕事のあと、ほかの竜たちがやってきた。広大な大陸が、風の強い湖面に浮かぶ木の葉のように海の上を流されていて、時折互いにぶつかり合って隆起し、山脈全体を作り上げるなかを……空を覆うほどの群れとなった白竜たちが大陸中に散らばって、豊かに変わった土から緑を芽生えさせ、澄んだ空気と甘い水とを作った。やがて〈年経たる野蛮な生き物〉に出くわすと、黒竜は炎を持って彼らを追い立て、平定した。黄竜が〈高貴なる眠れる人びと〉を目覚めさせ、青竜は彼らに〈竜の心臓〉を与えた……」

 それは、リアナのような田舎育ちの少女でもよく知っている、竜族たちの創世神話だった。
「あなたがこの話をおぼえているなんて。ちょっと驚いたわ」
「なぜ?」
「あなたは、竜祖を信じていないんじゃないかと思った……」

 フィルは表立って自分の意見を主張するタイプではないが、竜祖やライダーがかかわる伝統行事には、あえて言及しないでいることが多かった。だから、彼の信仰について聞く機会はなかったのだが、リアナはなんとなくそう感じていたのだった。少なくとも、もし自分が彼と同じ〈ハートレス〉だとしたら、無条件に竜祖を信じることはできないだろう。

「そうですね」といい、フィルはいつもの微笑みのまま少し考えるそぶりになった。
「〈ハートレス〉たちの師団を率いて無謀な撤退戦を強いられたとき、おれはもう心の底から竜祖のことを信じることはできないと思いました。でも、それは戦争があまりに過酷で無慈悲だからというせいではなくて、おれ自身が……あまりにもやすやすと人が殺せるという事実に、そしてそれを自分のよりどころにしているという事実に、気づいてしまったせいのような気がします」
「今でも?」
「……ええ」

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登場人物紹介

リアナ・ゼンデン

本作の主人公。竜騎手(ライダー)にあこがれる平凡な田舎少女だったが、竜たちの王となる運命が待っていた。

すなおで活発、売られたケンカは買うタイプ。

養父の教育もあり、なかなかの政治手腕を見せることも。

デイミオン・エクハリトス(デイ)

フィルに続き里にリアナを迎えに来た竜騎手。彼女の次の王位継承権を持つ。

王国随一の黒竜アーダルの主人(ライダー)。

高慢な野心家で、王位をめぐってリアナと衝突するが……。

群れを率いるアルファメイルで、誇り高く愛情深い男でもある。

フィルバート・スターバウ(フィル)

襲撃された里からリアナを救いだした、オンブリアの元軍人。彼女をつねに守るひそかな誓いを立てている。

ふだんは人あたりよく温厚だが、じつは〈竜殺し〉〈剣聖〉などの二つ名をもつ戦時の英雄。

リアナに対しては過保護なほど甘いものの、秘密をあかさないミステリアスな一面ももつ。

レーデルル(ルル)

リアナが雛から育てた古竜の子ども。竜種は白で、天候を操作する能力をもつ。

グウィナ卿

五公(王国の重要貴族)の一員で、黒竜のライダー。私生活ではデイ・フィルの愛情深い叔母、二児の母。

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