3-2. 王権と〈呼ばい〉のこと ③
文字数 2,721文字
(フィルは、〈呼ばい〉に詳しくないんだ)
リアナは気づいた。〈呼ばい〉自体、できないような口ぶりに聞こえる。竜族でも、それをする人としない人――あるいは、できる人とできない人というべきか?――がいるらしい。隠れ里では、人間や混血が多かったせいもあって、少なくとも彼女の周囲で話題に上がったことはなかった。ただ、里長 はいつ、どこで子どもたちがどんないたずらをしているかいつでも知っていたから、神通力があるんだなどとは言われていた。いま思えば、それが〈呼ばい〉なのかもしれない。
あるいは、〈呼ばい〉なんて関係なく、里長はいつでも子どもたちのことを見ていただけかもしれない。
そう思うと里長の顔がふっと緩んで笑顔のように見えたときのことを思い出し、また涙がこぼれそうになる。
リアナの動揺をよそに、青年たち二人はなにごとかを短く相談しあって、席を立った。フィルが部屋の隅に置いてあった衝立 を持ってきて、真ん中あたりにそれを置く。飴色をした薄い木製で、ところどころに装飾的な穴が開いているものの、向こう側を見渡せるほどではなかった。デイミオンは衝立の向こう側で椅子に座っているらしく、長身の頭は見えなくなっている。
「よし。こうしよう」フィルは衝立の横に立ったまま、腰に手を当てたポーズで言った。
「リアナ、椅子をあちら側に向けて、デイミオンが完全に見えないようにしてください。……」
リアナが言いつけに従うと、「そう。……じゃ、衝立のあちら側でデイミオンがなにかしますから。それを当ててみて」
「なにかって……なにを? わたしが?」リアナは困惑した。「わかるわけないと思うけど……」
「いいから、いいから」フィルはリラックスした表情だ。「さ、どうぞ、デイ」
なにがなんだか……。
リアナにはよくわからない。
デイミオンのほうに意識を集中しようとしたが、そうはいっても後ろに目があるでもなく、普段と違うなにかができるわけでもない。椅子に座った青年を想像してみようとするが、よく知らない相手だしさほどうまくはできない。仕方なく壁にかかったタペストリーを眺めた。領主の屋敷やら、狩猟にいそしむ竜と乗り手やらの絵が織られている。いろいろな色の糸が使われていて、華やかだ。
右側にある果樹がレモンかオレンジか考えていたとき、リアナは指先に急な痛みを感じてびくりと震えた。
「いたっ」
手を顔の前に持ってきて見るが、傷らしいものはなにもない。裏返したり、ひらひらしてみる。「なに……」
痛いのは指だが、それだけではないことにすぐに気がついた。お腹がぽかぽかと温かいのが感じられる。
(温かい……のかな?)
確信は持てないが……とにかく、一番近いのは温かさだ。さらに、その感覚に集中しようとすると、自分のまわりが、部屋のいっさいがなくなっていくような奇妙な感覚が取って代わりはじめた。背後の二人のかたちも消え、ただ彼女同様になって、闇のなかのほのかな温度、オレンジ色の燠火 のように見えた。その一方で、部屋は暗く冷たく感じられ、その外に意識が広がるにつれ、また小さな意識の火がちらちらと燃えている……。
(あ……なんだか、もっと……)
もっと先がある。その先に、もっと気持ちのいいものが……
「リ――ア――」水のなかのようにゆっくり、呼びかける声がある。あまりにのろいので、現実にはないほど低く聞こえる。リアナははっとして、意識を――というか、自分を取り戻した。
「わかった?」あんがい近くから聞こえる。フィルの声だ。
「指が……」リアナはまだ信じがたく、左手をためつすがめつした。
「左手の小指……? が痛い。切っちゃったみたいに」
「はい、正解」
何事もないかのように言うと、青年は衝立を片付けはじめた。デイミオンが立ち上がり、部屋を渡ってくる。顔の前にかかげた左手の、その小指の第二関節あたりから血が流れていた。
〔わかったか?〕
デイミオンはリアナを見つめたが、口は閉じたままだ。
声は自分のお腹のあたりから聞こえるようだった。
「わっ、なにっ!?」
〔……声が大きい〕
感情のこもらない、青く冷たい目が彼女を見すえた。
〔これが精神感応だ。竜族では〈呼ばい〉と呼ばれている。念話とはまた別のものだが、それは追々でいいだろう〕
〔そ、そうなの〕
ひとまず、心のなかでそう返答してみる。
〔わたしの声は聞こえてる?〕
〔いちおう言っておくが、おまえの声は聞こえない〕
〔あ、そうなんだ……〕
なんだか会話が成り立っているような気がしたが、次にリアナが呼びかけようとしたとき、それにかぶさるようにデイミオンが、
〔なにか話しかけているなら、無駄だ〕と言った。
〔いま私がしているように、耳で聞くほどはっきりと心に呼びかけるのにはいくらか訓練が要る。これくらい近ければ聞き取るのはたやすいが、さっきも言ったように竜族では非常に無礼な行為になるので、しない〕
〔まあ、自分の考えが相手に筒抜けって思ったら、ぞっとするものね〕これはリアナの思考。
〔この人にもそれくらいの礼儀はあるんだわ〕
読みとられないことがわかったので、失礼なことを勝手に思った。
「もしかして、念話しているの?」横から、フィルが声に出して言った。
「……ああ」デイミオンも声に出した。
「聞こえたな?」こちらは、リアナに向かって。
「……うん」しぶしぶとうなずく。
「では、もう寝ろ」デイミオンが言った。「明日にはタマリスに向けて出発する。ほかに聞きたいことがあれば、道すがらでも構わんだろう」
リアナは尋ねた。「もし、わたしが行かないって言ったら?」
「はぁ?」デイミオンは寝具を引き出しながら、呆れた声で答える。「さっきの話で、自分の立場を理解できなかったのか?……第一、ほかに行くあてもないだろう」
反論しようと思ったが、どういえばこの男が納得してくれるのかわからなかったので、やめた。代わりに、穏やかに尋ねる。
「もうひとつだけいい?」
「なんだ」
「わたしが〈乗り手 〉かどうか確認できる? 本当なら今日、成人の儀で教わるはずだったんだけど……」
デイミオンはめんどくさそうにため息をついた。そんなことを今聞くのか、と言わんばかりの表情だ。一日の間に、身内同然の人々をすべてなくしたというのに、人間らしい配慮を示してくれる気配はない。そして、リアナもそれに抗議はしなかった。
その代わりに、別のことを考えていた。
「おまえは、私が〈乗り手 〉であるのと同じくらい確かに〈乗り手 〉だ」リアナの胸中を察することなく、デイミオンは即答した。
「オンブリアの王に〈乗り手 〉以外の者が選ばれた記録はない。わかったか? なら寝ろ」
「わかったわ」リアナは静かに答えた。
リアナは気づいた。〈呼ばい〉自体、できないような口ぶりに聞こえる。竜族でも、それをする人としない人――あるいは、できる人とできない人というべきか?――がいるらしい。隠れ里では、人間や混血が多かったせいもあって、少なくとも彼女の周囲で話題に上がったことはなかった。ただ、
あるいは、〈呼ばい〉なんて関係なく、里長はいつでも子どもたちのことを見ていただけかもしれない。
そう思うと里長の顔がふっと緩んで笑顔のように見えたときのことを思い出し、また涙がこぼれそうになる。
リアナの動揺をよそに、青年たち二人はなにごとかを短く相談しあって、席を立った。フィルが部屋の隅に置いてあった
「よし。こうしよう」フィルは衝立の横に立ったまま、腰に手を当てたポーズで言った。
「リアナ、椅子をあちら側に向けて、デイミオンが完全に見えないようにしてください。……」
リアナが言いつけに従うと、「そう。……じゃ、衝立のあちら側でデイミオンがなにかしますから。それを当ててみて」
「なにかって……なにを? わたしが?」リアナは困惑した。「わかるわけないと思うけど……」
「いいから、いいから」フィルはリラックスした表情だ。「さ、どうぞ、デイ」
なにがなんだか……。
リアナにはよくわからない。
デイミオンのほうに意識を集中しようとしたが、そうはいっても後ろに目があるでもなく、普段と違うなにかができるわけでもない。椅子に座った青年を想像してみようとするが、よく知らない相手だしさほどうまくはできない。仕方なく壁にかかったタペストリーを眺めた。領主の屋敷やら、狩猟にいそしむ竜と乗り手やらの絵が織られている。いろいろな色の糸が使われていて、華やかだ。
右側にある果樹がレモンかオレンジか考えていたとき、リアナは指先に急な痛みを感じてびくりと震えた。
「いたっ」
手を顔の前に持ってきて見るが、傷らしいものはなにもない。裏返したり、ひらひらしてみる。「なに……」
痛いのは指だが、それだけではないことにすぐに気がついた。お腹がぽかぽかと温かいのが感じられる。
(温かい……のかな?)
確信は持てないが……とにかく、一番近いのは温かさだ。さらに、その感覚に集中しようとすると、自分のまわりが、部屋のいっさいがなくなっていくような奇妙な感覚が取って代わりはじめた。背後の二人のかたちも消え、ただ彼女同様になって、闇のなかのほのかな温度、オレンジ色の
(あ……なんだか、もっと……)
もっと先がある。その先に、もっと気持ちのいいものが……
「リ――ア――」水のなかのようにゆっくり、呼びかける声がある。あまりにのろいので、現実にはないほど低く聞こえる。リアナははっとして、意識を――というか、自分を取り戻した。
「わかった?」あんがい近くから聞こえる。フィルの声だ。
「指が……」リアナはまだ信じがたく、左手をためつすがめつした。
「左手の小指……? が痛い。切っちゃったみたいに」
「はい、正解」
何事もないかのように言うと、青年は衝立を片付けはじめた。デイミオンが立ち上がり、部屋を渡ってくる。顔の前にかかげた左手の、その小指の第二関節あたりから血が流れていた。
〔わかったか?〕
デイミオンはリアナを見つめたが、口は閉じたままだ。
声は自分のお腹のあたりから聞こえるようだった。
「わっ、なにっ!?」
〔……声が大きい〕
感情のこもらない、青く冷たい目が彼女を見すえた。
〔これが精神感応だ。竜族では〈呼ばい〉と呼ばれている。念話とはまた別のものだが、それは追々でいいだろう〕
〔そ、そうなの〕
ひとまず、心のなかでそう返答してみる。
〔わたしの声は聞こえてる?〕
〔いちおう言っておくが、おまえの声は聞こえない〕
〔あ、そうなんだ……〕
なんだか会話が成り立っているような気がしたが、次にリアナが呼びかけようとしたとき、それにかぶさるようにデイミオンが、
〔なにか話しかけているなら、無駄だ〕と言った。
〔いま私がしているように、耳で聞くほどはっきりと心に呼びかけるのにはいくらか訓練が要る。これくらい近ければ聞き取るのはたやすいが、さっきも言ったように竜族では非常に無礼な行為になるので、しない〕
〔まあ、自分の考えが相手に筒抜けって思ったら、ぞっとするものね〕これはリアナの思考。
〔この人にもそれくらいの礼儀はあるんだわ〕
読みとられないことがわかったので、失礼なことを勝手に思った。
「もしかして、念話しているの?」横から、フィルが声に出して言った。
「……ああ」デイミオンも声に出した。
「聞こえたな?」こちらは、リアナに向かって。
「……うん」しぶしぶとうなずく。
「では、もう寝ろ」デイミオンが言った。「明日にはタマリスに向けて出発する。ほかに聞きたいことがあれば、道すがらでも構わんだろう」
リアナは尋ねた。「もし、わたしが行かないって言ったら?」
「はぁ?」デイミオンは寝具を引き出しながら、呆れた声で答える。「さっきの話で、自分の立場を理解できなかったのか?……第一、ほかに行くあてもないだろう」
反論しようと思ったが、どういえばこの男が納得してくれるのかわからなかったので、やめた。代わりに、穏やかに尋ねる。
「もうひとつだけいい?」
「なんだ」
「わたしが〈
デイミオンはめんどくさそうにため息をついた。そんなことを今聞くのか、と言わんばかりの表情だ。一日の間に、身内同然の人々をすべてなくしたというのに、人間らしい配慮を示してくれる気配はない。そして、リアナもそれに抗議はしなかった。
その代わりに、別のことを考えていた。
「おまえは、私が〈
「オンブリアの王に〈
「わかったわ」リアナは静かに答えた。