エピローグ 里の真実とフィルの嘘 ②
文字数 2,870文字
それは、理屈の上では、デイミオンがケイエでやったことと似ていた。
黒竜アーダルがオンブリアの第一の竜 と呼ばれるように、ライダーとコーラーには力の上での明確な序列がある。
一刻も早くケイエに到着するためにアーダルを置いてきたデイミオンは、そのもともとの序列を利用して、その場にいた
ロッタも同じことをしたのだ。ただし、
リアナは、紙の上に目を落とし、よく知った名前と見知らぬ家名の組みあわせを見つめた。
ウルカ・テネン=スヴァット。黒竜の竜騎手。契約竜、イーダ。
ロッテヴァーン・ハルコン。黒竜の竜騎手。契約竜、アウローラ。
ロッタが、ロッタこそ、彼女が不思議に思っていた、『里の二人目のライダー』だったのだ。
「わたしのために、虫かごを開けてくれるほど優しかったのに」
リアナの声は乾いて、平坦だった。「二人とも、子どもを大事にしすぎて女衆にからかわれるくらいだったのに」
それでも、一人は子どもたちの半数をみずからの手で殺し、もう一人は盟友のはずのライダーを殺したのか。
目のふちが赤くなっていたが、涙は見えなかった。おそらく、一人の夜に何度も泣いたのだろうとフィルは思った。ときには、涙が涸れることがある。
「調べないでほしかったんです」
言わずにおくつもりだった本音が、ついこぼれた。
「あなたが答にたどり着かないことを祈っていました。あまりに悲惨だし――彼らがそれを望んでいないと思ったんです。俺は傲慢ですね」
♢♦♢
語り終えたフィルはテーブルに手をつき、手入れされたバラのほうに目を向けていた。
彼のことをほとんど知らないのだ、ということを、ふとリアナは思った。
血筋正しい竜族の王の子だけれど、〈竜の心臓〉がないというだけで差別される〈ハートレス〉。かつては、戦場で鬼神と恐れられた剣士だった。今でもおそらくはオンブリア最強の兵士だろう。そんな男が、自分に忠誠を誓っている。彼女の身を守るために内偵も厭 わないほどに。それでいて、こんなふうに彼女を真実から遠ざけるようなこともしてのける。
底が知れない、というのは、彼のようなタイプを言うのだろう。
「心配するのは、わたしが王だから?」
フィルは一瞬、虚を突かれたようだった。「もちろんです」
「前に言ってくれたよね? すべてを知って、本当に王になりたくないと思うなら、わたしを連れて逃げてもいいって。あなたがわたしを守るのは、それとは矛盾しない?」
フィルはテーブルのあたりに目線を下げた。まつ毛が濃い色の影を落としている。ハシバミ色の瞳から感情を読みとるのは難しかった。
「買いかぶりすぎですよ。……でも、あなたはほかにかけがえのない人だから。それは本当です」
「答えになってないよ。ねぇ、フィル……」
リアナはいら立って言った。
「答えじゃなくても、理由にはなりませんか?」フィルがさえぎって、いきなり彼女の右腕をつかんだ。
二つの心臓が止まるかと思った。
なぜなら、いま自分の右腕には、あの火事の夜とおなじ冬薔薇 を凍らせて確かめ、フィルが温室に入ってきたときとっさに隠したはずなのに、それを見られていたのか。
「やめて! 放して!」
もがいて逃れようとするが、フィルの腕はびくともしない。
右腕の模様を隠すように、大きな手のひらが覆っていた。その手は兵士というほど日にも焼けていないのに、彼の肌と比べると、リアナの細い腕は牛乳のように白く見えた。ふだんはめったに意識しない、男女の圧倒的な体格差を感じる。背後から抱かれるような恰好で、違う意味でも緊張が高まりそうだ。
その緊張を知ってか知らずか、「シーッ……落ち着いて」となだめられた。
「落ち着いていられるわけ、ないでしょ! ……この紋様がなにか知って――」
「知っています」再び、さえぎった。
そして、そっと腕以外の束縛をほどいて身体を離した。心臓はまだ忙しく跳ねまわっている。
「知っているけど、約束してください。俺がいいと言うまで、この紋様のことは、しばらく誰にも黙っていてほしいんだ」
「どういうこと? フィル、わからないよ……」
そんなことを言われると、途方に暮れてしまう。リアナはいやいやをするように首を振った。引き抜こうとする指を、フィルがぎゅっと掴んだ。
「お願いです。……かわりに、俺の秘密もひとつ打ち明けるから」
二人の間に沈黙が落ちた。ハシバミ色の目がじっとリアナにそそがれる。その右目の虹彩にだけ、わずかに緑がかった部分があることに、はじめて気がついた。
フィルバートが秘密を明かすことは、彼女が知るかぎり、
「十六年前、俺は、赤ん坊だったあなたをエリサ王から託されて、あなたの養父のもとへ運びました。〈隠れ里〉のことを知っていたのは、そのためです。……そのときは、まだ違う場所でしたが」
「わたしを……?」リアナは絶句した。「
「
「ええ」
先の戦争に従軍していたのだから、リアナが生まれた頃には成人していたのだろうが、目の前の青年の正確な年齢を知らなかったせいもあってすぐには納得できなかった。〈里〉で育つと、どうしても短命な人間を基準に見てしまう。人間の年齢なら、ほんの三つか四つしか離れていないように見えるからだ。
けれど、もし本当なら、それはいくつかの疑問を解くカギになる事実だった。
フィルが、デイミオンよりも先に〈隠れ里〉にたどり着いたこと。イニの名前を知っていたこと。それに――いや、それよりも。
「イニは? 彼はいったい何者なの? 彼はいまどこにいるの? わたしの母は――」
「それは、今は答えられません。すみません」
「……秘密ばっかりなのね」
責める口調にも、フィルは動じることはない。
「ただ、ひとつだけ――あなたの養父、イニは無事で生きています」
(そうかもしれないわね)
いまとなってみれば、それは不思議なことでもない。
(王から預かった子どもを置いて、ふらっと出ていってしまったんだもの)
「……もういいわ」
結局、彼が明かした秘密は、それ以上の謎を呼ぶものでしかない。それですら、彼の譲歩ではなく、なにかほかに目的があってのことかもしれない。
「それじゃあ……それが理由? あなたがわたしを守るのは? 母との約束なの?」
フィルはわずかもためらわずに、彼女の目を見て「ええ」と答えた。
はっきりとなぜかはわからないが、リアナはそれを嘘だと感じた。そして、彼が自分に嘘をつくのは、これが最初でも最後でもないような気がした。
目を合わせながら嘘がつける、この優しい青年を。
それでもなぜか信じてしまう、自分の心の不思議を思った。
竜の国オンブリアは、じきに春を迎えようとしている。
【第二部へ続く】
黒竜アーダルがオンブリアの
一刻も早くケイエに到着するためにアーダルを置いてきたデイミオンは、そのもともとの序列を利用して、その場にいた
すべての
黒竜の力をつないで広範な消火活動を成功させた。ロッタも同じことをしたのだ。ただし、
序列の定まっていない、敵の
黒竜のライダーに対して。それは、ライダーたちの間では禁じ手として知られている方法なのだとデイミオンが説明したそうだ。リアナは、紙の上に目を落とし、よく知った名前と見知らぬ家名の組みあわせを見つめた。
ウルカ・テネン=スヴァット。黒竜の竜騎手。契約竜、イーダ。
ロッテヴァーン・ハルコン。黒竜の竜騎手。契約竜、アウローラ。
ロッタが、ロッタこそ、彼女が不思議に思っていた、『里の二人目のライダー』だったのだ。
「わたしのために、虫かごを開けてくれるほど優しかったのに」
リアナの声は乾いて、平坦だった。「二人とも、子どもを大事にしすぎて女衆にからかわれるくらいだったのに」
それでも、一人は子どもたちの半数をみずからの手で殺し、もう一人は盟友のはずのライダーを殺したのか。
目のふちが赤くなっていたが、涙は見えなかった。おそらく、一人の夜に何度も泣いたのだろうとフィルは思った。ときには、涙が涸れることがある。
「調べないでほしかったんです」
言わずにおくつもりだった本音が、ついこぼれた。
「あなたが答にたどり着かないことを祈っていました。あまりに悲惨だし――彼らがそれを望んでいないと思ったんです。俺は傲慢ですね」
♢♦♢
語り終えたフィルはテーブルに手をつき、手入れされたバラのほうに目を向けていた。
彼のことをほとんど知らないのだ、ということを、ふとリアナは思った。
血筋正しい竜族の王の子だけれど、〈竜の心臓〉がないというだけで差別される〈ハートレス〉。かつては、戦場で鬼神と恐れられた剣士だった。今でもおそらくはオンブリア最強の兵士だろう。そんな男が、自分に忠誠を誓っている。彼女の身を守るために内偵も
底が知れない、というのは、彼のようなタイプを言うのだろう。
「心配するのは、わたしが王だから?」
フィルは一瞬、虚を突かれたようだった。「もちろんです」
「前に言ってくれたよね? すべてを知って、本当に王になりたくないと思うなら、わたしを連れて逃げてもいいって。あなたがわたしを守るのは、それとは矛盾しない?」
フィルはテーブルのあたりに目線を下げた。まつ毛が濃い色の影を落としている。ハシバミ色の瞳から感情を読みとるのは難しかった。
「買いかぶりすぎですよ。……でも、あなたはほかにかけがえのない人だから。それは本当です」
「答えになってないよ。ねぇ、フィル……」
リアナはいら立って言った。
「答えじゃなくても、理由にはなりませんか?」フィルがさえぎって、いきなり彼女の右腕をつかんだ。
二つの心臓が止まるかと思った。
なぜなら、いま自分の右腕には、あの火事の夜とおなじ
黒い紋様が
浮かんでいたからだ。「やめて! 放して!」
もがいて逃れようとするが、フィルの腕はびくともしない。
右腕の模様を隠すように、大きな手のひらが覆っていた。その手は兵士というほど日にも焼けていないのに、彼の肌と比べると、リアナの細い腕は牛乳のように白く見えた。ふだんはめったに意識しない、男女の圧倒的な体格差を感じる。背後から抱かれるような恰好で、違う意味でも緊張が高まりそうだ。
その緊張を知ってか知らずか、「シーッ……落ち着いて」となだめられた。
「落ち着いていられるわけ、ないでしょ! ……この紋様がなにか知って――」
「知っています」再び、さえぎった。
そして、そっと腕以外の束縛をほどいて身体を離した。心臓はまだ忙しく跳ねまわっている。
「知っているけど、約束してください。俺がいいと言うまで、この紋様のことは、しばらく誰にも黙っていてほしいんだ」
「どういうこと? フィル、わからないよ……」
そんなことを言われると、途方に暮れてしまう。リアナはいやいやをするように首を振った。引き抜こうとする指を、フィルがぎゅっと掴んだ。
「お願いです。……かわりに、俺の秘密もひとつ打ち明けるから」
二人の間に沈黙が落ちた。ハシバミ色の目がじっとリアナにそそがれる。その右目の虹彩にだけ、わずかに緑がかった部分があることに、はじめて気がついた。
フィルバートが秘密を明かすことは、彼女が知るかぎり、
とても、とても
、珍しいはずだった。「十六年前、俺は、赤ん坊だったあなたをエリサ王から託されて、あなたの養父のもとへ運びました。〈隠れ里〉のことを知っていたのは、そのためです。……そのときは、まだ違う場所でしたが」
「わたしを……?」リアナは絶句した。「
あなたが
? イニのところへ?」「
イニを知っているの
?」「ええ」
先の戦争に従軍していたのだから、リアナが生まれた頃には成人していたのだろうが、目の前の青年の正確な年齢を知らなかったせいもあってすぐには納得できなかった。〈里〉で育つと、どうしても短命な人間を基準に見てしまう。人間の年齢なら、ほんの三つか四つしか離れていないように見えるからだ。
けれど、もし本当なら、それはいくつかの疑問を解くカギになる事実だった。
フィルが、デイミオンよりも先に〈隠れ里〉にたどり着いたこと。イニの名前を知っていたこと。それに――いや、それよりも。
「イニは? 彼はいったい何者なの? 彼はいまどこにいるの? わたしの母は――」
「それは、今は答えられません。すみません」
「……秘密ばっかりなのね」
責める口調にも、フィルは動じることはない。
「ただ、ひとつだけ――あなたの養父、イニは無事で生きています」
(そうかもしれないわね)
いまとなってみれば、それは不思議なことでもない。
(王から預かった子どもを置いて、ふらっと出ていってしまったんだもの)
「……もういいわ」
結局、彼が明かした秘密は、それ以上の謎を呼ぶものでしかない。それですら、彼の譲歩ではなく、なにかほかに目的があってのことかもしれない。
「それじゃあ……それが理由? あなたがわたしを守るのは? 母との約束なの?」
フィルはわずかもためらわずに、彼女の目を見て「ええ」と答えた。
はっきりとなぜかはわからないが、リアナはそれを嘘だと感じた。そして、彼が自分に嘘をつくのは、これが最初でも最後でもないような気がした。
目を合わせながら嘘がつける、この優しい青年を。
それでもなぜか信じてしまう、自分の心の不思議を思った。
竜の国オンブリアは、じきに春を迎えようとしている。
【第二部へ続く】