4-1. おれの血を飲んで ④
文字数 2,152文字
夜のあいだ、心細くなったリアナは話をねだった。フィルは隣の寝台に身体を横たえはしたものの、相変わらず眠るつもりはないような顔で過ごしていたが、求めに応じていろいろな話をしてくれた。二人で釣りに出かけていた頃のような、たわいもない話だ。タマリスにある雑貨屋に住みついている猫のこと。塩の精製で生計を立てている海辺の街のこと。旅の一座は移動のあいだどんな生活をしているのか。飛竜の飼料を上手に作るコツ。
ある種の話題が注意深く避けられていることにリアナは気づいたが、それでもフィルの声は穏やかで甘く優しく、眠りを誘った。心地よいけだるさに包まれながら、話をしてもらいながら寝つくなんて、いくらなんでも子どもじみていると思った。〈隠れ里〉のリア、〈ノウサギ六匹殺し〉のリアは、水で薄めた牛乳のようにめそめそした泣き言ばかり言う少女ではなかったはずだ。眠りにおちながら、明日はいつも通りの自分が戻ってきますようにと祈った。
♢♦♢
巡礼の客たちは連泊することが少ない。街道沿いのその宿でも、朝には多くの客が出発していった。宿の主人は従業員たちといっしょに、部屋の始末などを行っていく。
「おや、チェリーのシロップ漬けを売ってやったのかい?」
主人はシーツを抱えたまま、手伝いの娘に声をかけた。大きな果実ビンを抱えて地下の食糧庫に戻っていく途中に見えたからだ。「あれは、あんたの妹の結婚式までとっておくんじゃなかったのかい?」
果物のシロップ漬けは、おいしくて栄養価も高く、見た目にもきれいだが、作るのに手間がかかる。台所を手伝ってくれている近所の娘のとっておきだ。器量よしな上に料理上手な娘で、祖母のレシピだと自慢していたのを主人も覚えていたのだった。
「わけたのはちょっとだけだし。それに、粉雪みたいに上等の砂糖を、1パウンドもくれたのよ」思わぬ物々交換の成果に、娘はほくほくしている。
「ほーう。そんなお大尽さまがいたかね?」主人は首をひねった。
「ほら、あの若い夫婦よ」言ったものの、娘はすこしばかり面白くなさそうな顔になった。「ちょっとわけありそうなイケメンでさ」
「ああ、あの旦那か」昨夜のカウンターでのやりとりを思い出して、主人もうなずいた。「食堂でずいぶん世話を焼いてやってたじゃないか。砂糖ばっかりじゃなく、あの旦那も味見してみたかったんだろ? 新婚夫婦で、残念だな」
いい歳の未婚の娘だから、主人の口もいくらか下世話になる。娘は自慢の巻毛を引っ張って整えながら、「まったく、とんだ唐変木だったわよ」とこぼした。
「そりゃ、ちょっといい男だと思ったけどさ。どこの騎手さまだか知らないけど、お堅いったら」
どうやら男に相手にされず、宿の看板娘のプライドが傷ついたらしい。主人は明るい調子で言ってやった。
「まあ気にしないこったな、巡礼シーズンになりゃ、男なんか掃いて捨てるほど来るんだから」
♢♦♢
洗顔や身支度を終えて竜舎に降りていったリアナは、フィルを探してあたりを見まわした。ふだんの彼の行動からしてそこにいると踏んだのだが、近くには見当たらない。少しばかり出立が遅れてしまっていて、竜舎にいるのは彼らの竜だけだった。すでに荷物が積んであるから、フィルが朝ここに来たのは間違いない。
すぐに戻ってくるだろうと思い、竜舎のなかをぶらついた。採光のための隙間から光が斜めに差し込んでいて、暗い舎内で朝らしいコントラストを生んでいる。飛竜は清潔な生き物なので、竜の匂いよりも陽に当たった干し草の匂いのほうが目立った。リアナは深呼吸をして、首と肩をまわし、一日の決意をあらたにしようとした。
が、フィルが舎内に入ってくるほうが早かった。昨日の不機嫌さ(とリアナには思われるもの)はもう消えていて、いたずらっ子めいた笑みを口端に浮かべている。茶の短髪に寝ぐせがついているのが、そのいくらか子どもっぽい雰囲気に一役買っていた。
「どこに行ってたの?」
「ちょっと買い物をね」
フィルが目の前に立つと、なにかを背中側に隠しているのが見てとれた。
「なあに?」
「いいから、目を閉じて、口を開けてください」
軽い調子だったが、彼女は一瞬どきりとした。その言葉を、デイミオンから聞いたのはつい三日前。そのときに彼が飲ませたであろうもののことを考えると、身がまえてしまうのはしかたがないだろう。それでもフィルを信じているので、おとなしく口を開けた。
ぱりっとした薄く、固い感触に続いて、口のなかでねっとりするような果肉がある。リアナは目を開けた。
「……お菓子?」
「正解」
フィルは後ろ手に隠していた袋を取りだして、中身を見せてくれた。まるまると粒のそろった、宝石のように美しい赤いサクランボの飴がけが入っている。
「昨日は……怖がらせてしまって、ごめん」
フィルが言う。「お詫びにと思って、宿のひとから分けてもらったんです。いまは味はしないと思うけど、見た目がかわいいから、すこしは……」
剣技によらず何事もそつなくこなすし、難しいこともさらっとやってのける青年なので、こんなふうに自信なさげにしているのは珍しい。贈り物そのものよりも、フィルのそういう態度がうれしくて、リアナも笑顔になった。
「……ありがとう。大事に食べるね」
ある種の話題が注意深く避けられていることにリアナは気づいたが、それでもフィルの声は穏やかで甘く優しく、眠りを誘った。心地よいけだるさに包まれながら、話をしてもらいながら寝つくなんて、いくらなんでも子どもじみていると思った。〈隠れ里〉のリア、〈ノウサギ六匹殺し〉のリアは、水で薄めた牛乳のようにめそめそした泣き言ばかり言う少女ではなかったはずだ。眠りにおちながら、明日はいつも通りの自分が戻ってきますようにと祈った。
♢♦♢
巡礼の客たちは連泊することが少ない。街道沿いのその宿でも、朝には多くの客が出発していった。宿の主人は従業員たちといっしょに、部屋の始末などを行っていく。
「おや、チェリーのシロップ漬けを売ってやったのかい?」
主人はシーツを抱えたまま、手伝いの娘に声をかけた。大きな果実ビンを抱えて地下の食糧庫に戻っていく途中に見えたからだ。「あれは、あんたの妹の結婚式までとっておくんじゃなかったのかい?」
果物のシロップ漬けは、おいしくて栄養価も高く、見た目にもきれいだが、作るのに手間がかかる。台所を手伝ってくれている近所の娘のとっておきだ。器量よしな上に料理上手な娘で、祖母のレシピだと自慢していたのを主人も覚えていたのだった。
「わけたのはちょっとだけだし。それに、粉雪みたいに上等の砂糖を、1パウンドもくれたのよ」思わぬ物々交換の成果に、娘はほくほくしている。
「ほーう。そんなお大尽さまがいたかね?」主人は首をひねった。
「ほら、あの若い夫婦よ」言ったものの、娘はすこしばかり面白くなさそうな顔になった。「ちょっとわけありそうなイケメンでさ」
「ああ、あの旦那か」昨夜のカウンターでのやりとりを思い出して、主人もうなずいた。「食堂でずいぶん世話を焼いてやってたじゃないか。砂糖ばっかりじゃなく、あの旦那も味見してみたかったんだろ? 新婚夫婦で、残念だな」
いい歳の未婚の娘だから、主人の口もいくらか下世話になる。娘は自慢の巻毛を引っ張って整えながら、「まったく、とんだ唐変木だったわよ」とこぼした。
「そりゃ、ちょっといい男だと思ったけどさ。どこの騎手さまだか知らないけど、お堅いったら」
どうやら男に相手にされず、宿の看板娘のプライドが傷ついたらしい。主人は明るい調子で言ってやった。
「まあ気にしないこったな、巡礼シーズンになりゃ、男なんか掃いて捨てるほど来るんだから」
♢♦♢
洗顔や身支度を終えて竜舎に降りていったリアナは、フィルを探してあたりを見まわした。ふだんの彼の行動からしてそこにいると踏んだのだが、近くには見当たらない。少しばかり出立が遅れてしまっていて、竜舎にいるのは彼らの竜だけだった。すでに荷物が積んであるから、フィルが朝ここに来たのは間違いない。
すぐに戻ってくるだろうと思い、竜舎のなかをぶらついた。採光のための隙間から光が斜めに差し込んでいて、暗い舎内で朝らしいコントラストを生んでいる。飛竜は清潔な生き物なので、竜の匂いよりも陽に当たった干し草の匂いのほうが目立った。リアナは深呼吸をして、首と肩をまわし、一日の決意をあらたにしようとした。
が、フィルが舎内に入ってくるほうが早かった。昨日の不機嫌さ(とリアナには思われるもの)はもう消えていて、いたずらっ子めいた笑みを口端に浮かべている。茶の短髪に寝ぐせがついているのが、そのいくらか子どもっぽい雰囲気に一役買っていた。
「どこに行ってたの?」
「ちょっと買い物をね」
フィルが目の前に立つと、なにかを背中側に隠しているのが見てとれた。
「なあに?」
「いいから、目を閉じて、口を開けてください」
軽い調子だったが、彼女は一瞬どきりとした。その言葉を、デイミオンから聞いたのはつい三日前。そのときに彼が飲ませたであろうもののことを考えると、身がまえてしまうのはしかたがないだろう。それでもフィルを信じているので、おとなしく口を開けた。
ぱりっとした薄く、固い感触に続いて、口のなかでねっとりするような果肉がある。リアナは目を開けた。
「……お菓子?」
「正解」
フィルは後ろ手に隠していた袋を取りだして、中身を見せてくれた。まるまると粒のそろった、宝石のように美しい赤いサクランボの飴がけが入っている。
「昨日は……怖がらせてしまって、ごめん」
フィルが言う。「お詫びにと思って、宿のひとから分けてもらったんです。いまは味はしないと思うけど、見た目がかわいいから、すこしは……」
剣技によらず何事もそつなくこなすし、難しいこともさらっとやってのける青年なので、こんなふうに自信なさげにしているのは珍しい。贈り物そのものよりも、フィルのそういう態度がうれしくて、リアナも笑顔になった。
「……ありがとう。大事に食べるね」