1-4. 凍りつく世界のなかで ①
文字数 2,620文字
しっかりと起き上がれるほど回復するまでには、あきれるほどの時間がかかった。それまでの間も、デイミオンは政敵の動向を監視するためにあちこちに部下を送ったし、枕元に廷臣を呼んで宮廷での動きを指示するなどした。エンガス卿の動機は権勢欲に基づいているからまだ話が通じるが、エサルのほうはデーグルモールへの強い憎しみを抱いていて、是が非でもリアナを処刑したいと考えているらしい。彼が五公十家の総意を無視してまで暴挙に出るとは思えないが、彼女の安全に関することだから、わずかな動きでも見逃せなかった。
デイミオンの部屋には毎日、数名の貴族が呼ばれ、時には長い時間、計画を打ち合わせることもあった。血縁のグウィナとヒュダリオン、それに若い北方領主ナイルの出入りが多かったが、ときには、城内の人間には顔を知られていない軽装の少年が訪ねてくることもあった。打ち合わせのあいだは冷静を装っているデイミオンだったが、話が終わって彼らが帰ると、とたんに激しい焦燥感に襲われるのだった。
そうやって、さらに数日の時間が過ぎていった。
上体を起こすと、めまいと吐き気に襲われた。それで、妖精罌粟 の効力が切れかかっていることがわかり、いくらか力づけられる。
デイミオンは、副官のハダルクの肩を支えに、なんとか起き上がった。沈みかけの陽が、部屋のなかに長い影を落としていた。ちょうど、昼勤と夜勤の兵士の交代時間だ。
「ここから王の私室までは、近衛とわが団の竜騎手 が守っています」デイミオンの胴に革の鎧下をあてながら、ハダルクが説明した。「お部屋とその前広間にはエサル公の私兵が。十五人ほどですが、竜騎手 にも劣らない精鋭です」
「私兵など、誰が帯同を許可したんだ?」
「エンガス卿が、臨時の五公会を開かれて」
デイミオンは呪詛を吐いた。デイミオンが不在の場合、かれの投票権はもっとも在位年数の長い議員が持つ。つまり、エンガスにとってはやりたい放題というわけだ。デイミオンが意識を失っている数日間を、甘露のように味わったことは間違いない。
「ナイル卿を王の部屋の前に連れてきておいてくれ。疫病だのなんだの適当な理由をつけて、城内を自由に移動できないようにさせているはずだ」
ハダルクがうなずいた。「おそらくそうでしょう。〈通信手 〉を使いますか?」
「いや」デイミオンは首を振った。「ここまでやっているんだ、私なら〈通信手 〉には監視をつける。……使用人棟へ行って、〈ハートレス〉の侍女に伝言を頼め」
♢♦♢
〈王の間〉の前は、さながら前線基地のありさまだった。交代の兵士たちが引継ぎを行っている横で、エサルが〈呼び手 〉たちとなにごとか打ち合わせをしている。デイミオンは腹に力を入れ、ケガなどなかったかのように軍靴の足音も高く近づいていった。
「これは何事だ!?」轟くような大声を出す。「王の自室の前に扉だと? 近衛もなく卿 の兵だけか? 不軌とみなされたいのか?」
デイミオンが指さした先には、金属製の扉と落とし格子があった。城の構造を無視して設置された急ごしらえのもので、内装にそぐわぬぎらりとした光を放っている。恐ろしいのは、材料となる金属さえあれば、エサルは手のひと振りだけでこれを作り出すことができるということだろう。
「デイミオン卿。床上げはお済みなのか?」当のエサルは苦々しい顔をした。王太子のパフォーマンスには気がついているが、大勢が見ている手前、止める手段がないことを知っているのだ。
両者は、紅と濃紺の対照的な色合いの長衣 を身にまとい、それぞれの兵士もまたその色で飾られていたから、対立する構図がくっきりと目に見えた。
「デーグルモールの頭領とやらに、腹と背中を刺されたのだろう? 命があるだけで、ありがたいと思うべきだ。……
「あいにくとまだ死んでいない。今すぐ兵を退 けろ」
「あなたはもっと冷静な男だと思っていたが。守るべきものは、半死者 ではなく、生きている竜族ではないのか?」
二人の男はにらみ合った。エサルは不本意ながら、顎と目線を上げなければならなかった。デイミオンが、息もかかるほど間近に距離を詰めていたからだ。
「彼女に指一本触れてみろ」デイミオンは歯を剝いて警告した。「デーグルモールの呪いの前に、私の黒竜 で、おまえの領地を焼き尽くしてやる」
エサル公の名誉のために言っておけば、その言葉を聞いてもすくみあがりはしなかった。ただ、見るに堪えないといった様子で顔をそむけるさまは、周囲の兵士にそう思われかねない構図ではあった。
デイミオンが扉に近づくと、兵士たちは波が割れるように退いた。エサルはもはや手出しをあきらめて、王太子が通り過ぎるのを横目で見送るほかはなかった。
扉に手をかけると、簡単には開かないことがわかった。金属のノッカーが冷えきっている。空気中の水分が凍って、扉の隙間を閉じてしまっているのだ。デイミオンは手に力を込め、アーダルの炎を吹きつけた。ぽたぽたと水が漏れ、あっという間に床が水浸しになった。足を踏んばってさらに力を込めると、水が泡立って蒸発し、湯気となってあたりに広がる。腹に力を入れたせいなのか、氷が融けていくとともに、傷の痛みが激しくなった。薬が切れてから痛みだしていた傷口が、いよいよ開いてしまったのではないかと思うほどの激痛だった。
兵士たちの叫びが聞こえたが、黒竜大公はかまうことなく扉を押し開けた。中からは一瞬、すさまじい冷気が漏れたが、デイミオンがなかに姿を消すと扉が閉まり、あたりには静けさが広まった。
部屋のなかは冬の王国のようだった。すべてが白くきらめいていて、そのせいで広さの見当がつかなくなっている。なにもかもがうっすらと雪で覆われているようで、窓もタペストリーも家具も、本来あるはずのものがほとんど存在感をなくしていた。雪が降り、ものが凍るときの、ささやくような音が聞こえる。空気を吸い込むと、傷ついた肺がしびれるほど冷たかった。デイミオンは荒く息をつき、彼女を探した。
「入らないで」
部屋の奥から、あるかなきかの声がした。デイミオンはよろめきながら近づく。床が凍っているせいで滑り、無様に転ぶさまは、〈黒竜大公〉と呼ばれる青年とは思えなかった。立ちあがり、腹部をおさえてうめき、また近づく。吐きだされた息が、白い煙のようにたなびいては消えた。
デイミオンの部屋には毎日、数名の貴族が呼ばれ、時には長い時間、計画を打ち合わせることもあった。血縁のグウィナとヒュダリオン、それに若い北方領主ナイルの出入りが多かったが、ときには、城内の人間には顔を知られていない軽装の少年が訪ねてくることもあった。打ち合わせのあいだは冷静を装っているデイミオンだったが、話が終わって彼らが帰ると、とたんに激しい焦燥感に襲われるのだった。
そうやって、さらに数日の時間が過ぎていった。
上体を起こすと、めまいと吐き気に襲われた。それで、
デイミオンは、副官のハダルクの肩を支えに、なんとか起き上がった。沈みかけの陽が、部屋のなかに長い影を落としていた。ちょうど、昼勤と夜勤の兵士の交代時間だ。
「ここから王の私室までは、近衛とわが団の
「私兵など、誰が帯同を許可したんだ?」
「エンガス卿が、臨時の五公会を開かれて」
デイミオンは呪詛を吐いた。デイミオンが不在の場合、かれの投票権はもっとも在位年数の長い議員が持つ。つまり、エンガスにとってはやりたい放題というわけだ。デイミオンが意識を失っている数日間を、甘露のように味わったことは間違いない。
「ナイル卿を王の部屋の前に連れてきておいてくれ。疫病だのなんだの適当な理由をつけて、城内を自由に移動できないようにさせているはずだ」
ハダルクがうなずいた。「おそらくそうでしょう。〈
「いや」デイミオンは首を振った。「ここまでやっているんだ、私なら〈
♢♦♢
〈王の間〉の前は、さながら前線基地のありさまだった。交代の兵士たちが引継ぎを行っている横で、エサルが〈
「これは何事だ!?」轟くような大声を出す。「王の自室の前に扉だと? 近衛もなく
デイミオンが指さした先には、金属製の扉と落とし格子があった。城の構造を無視して設置された急ごしらえのもので、内装にそぐわぬぎらりとした光を放っている。恐ろしいのは、材料となる金属さえあれば、エサルは手のひと振りだけでこれを作り出すことができるということだろう。
「デイミオン卿。床上げはお済みなのか?」当のエサルは苦々しい顔をした。王太子のパフォーマンスには気がついているが、大勢が見ている手前、止める手段がないことを知っているのだ。
両者は、紅と濃紺の対照的な色合いの
「デーグルモールの頭領とやらに、腹と背中を刺されたのだろう? 命があるだけで、ありがたいと思うべきだ。……
王位を継ぐ大切な身
だ、いたわられよ」「あいにくとまだ死んでいない。今すぐ兵を
「あなたはもっと冷静な男だと思っていたが。守るべきものは、
二人の男はにらみ合った。エサルは不本意ながら、顎と目線を上げなければならなかった。デイミオンが、息もかかるほど間近に距離を詰めていたからだ。
「彼女に指一本触れてみろ」デイミオンは歯を剝いて警告した。「デーグルモールの呪いの前に、私の
エサル公の名誉のために言っておけば、その言葉を聞いてもすくみあがりはしなかった。ただ、見るに堪えないといった様子で顔をそむけるさまは、周囲の兵士にそう思われかねない構図ではあった。
デイミオンが扉に近づくと、兵士たちは波が割れるように退いた。エサルはもはや手出しをあきらめて、王太子が通り過ぎるのを横目で見送るほかはなかった。
扉に手をかけると、簡単には開かないことがわかった。金属のノッカーが冷えきっている。空気中の水分が凍って、扉の隙間を閉じてしまっているのだ。デイミオンは手に力を込め、アーダルの炎を吹きつけた。ぽたぽたと水が漏れ、あっという間に床が水浸しになった。足を踏んばってさらに力を込めると、水が泡立って蒸発し、湯気となってあたりに広がる。腹に力を入れたせいなのか、氷が融けていくとともに、傷の痛みが激しくなった。薬が切れてから痛みだしていた傷口が、いよいよ開いてしまったのではないかと思うほどの激痛だった。
兵士たちの叫びが聞こえたが、黒竜大公はかまうことなく扉を押し開けた。中からは一瞬、すさまじい冷気が漏れたが、デイミオンがなかに姿を消すと扉が閉まり、あたりには静けさが広まった。
部屋のなかは冬の王国のようだった。すべてが白くきらめいていて、そのせいで広さの見当がつかなくなっている。なにもかもがうっすらと雪で覆われているようで、窓もタペストリーも家具も、本来あるはずのものがほとんど存在感をなくしていた。雪が降り、ものが凍るときの、ささやくような音が聞こえる。空気を吸い込むと、傷ついた肺がしびれるほど冷たかった。デイミオンは荒く息をつき、彼女を探した。
「入らないで」
部屋の奥から、あるかなきかの声がした。デイミオンはよろめきながら近づく。床が凍っているせいで滑り、無様に転ぶさまは、〈黒竜大公〉と呼ばれる青年とは思えなかった。立ちあがり、腹部をおさえてうめき、また近づく。吐きだされた息が、白い煙のようにたなびいては消えた。