ひとつしかない心臓の、その最後の息まで ①
文字数 2,964文字
オンブリアとの国境沿いには数日にわたって不穏な雲がうずまき、付近の町は時期はずれの暴風雨に見舞われたと聞く。その嵐を逃れようと言うのか、それともほかに急ぎの用があるのか。
フィルバート・スターバウは旧イティージエン、セメルデレ遺跡群の入り口近くの
かつての大国の首都はうち棄てられ、アエンナガルと名前を変えて、デーグルモールたちの秘密の居住区となっている。そこにアエディクラの研究者たちが集まって兵器開発を行っているという情報を得て、フィルは遺跡への潜入を計画していた。その足掛かりとなるのが、この望楼だった。
ここに入りこむのにはすこしばかり苦労した。思ったよりも多くの兵士が詰めていたからで、糧食に混ぜた
兵士の一人を尋問して聞き出したところでは、現在アエンナガルでは古竜の生体実験が行われているらしい。情報をつなぎあわせると、捕らえられているのは北部領主で五公の一人、メドロート公とその竜であろうと思われた。
かなりまずい、とフィルは感じたし、よほどこの作戦をうち棄てて単独でアエンナガルに乗りこもうかと思った――状況から考えて、イティージエンに滞在中のリアナがメドロートたちの救出に乗り込んでくる可能性はかなり高い。親しい者たちの危機を見過ごせるタイプではないうえに、なにしろ御しがたいほどの無鉄砲ときている。
それでも望楼にとどまったのは、今やろうとしていることが、彼にしかできないことだったからだ。そして絶対に、それはリアナに必要なものとなる。
行くつもりはない
、自分に言い聞かせる。彼女のそばにはテオもケブも置いてきた。多少頼りなくはあるが、ミヤミとルーイも力になってくれるだろう。そしてなにより、デイミオン・エクハリトスがそばにいるはずだ。
見張りのための高台に雨が降りこみはじめても、フィルはじっと竜車の動向を確認していた。小さめの車に護衛が八名。かなり竜を急がせている。
猛然と走る竜車の、その御者の顔が見えるほどの距離になったところで、フィルは剣をかまえ、おもむろに空中へ足を踏みだした。
三階ほどの高さのある櫓から、一気に落ちていっても、それはフィルバート・スターバウにとっては準備運動も同然だった。
箱型になった竜車の、その天井にどさりと大仰な音を立てて着地する。車内の驚きと悲鳴を足もとに感じるよりも早く、足にぐっと力を込め、大げさな車体の揺れを背後に置き去りにして、跳ぶ。
フィルは剣を構えた兵士の一人に、飛びおりざまに頭上から斬りかかってやすやすと斬りふせ、不安定な体勢をものともせずに後ろにかわして、別の兵士の剣戟を避けた。兵士は
視界の範囲に兵士が四人、背後に二人。あわただしい音を立てて駆け去っていく足音は御者のものだろう。車のなかの人間たちは、この様子を見て逃げ出すタイミングをはかっているのに違いない。
三方を囲まれ、それぞれの剣を捌いていると、ふと小柄な兵士が目に留まった。視界の端で両手を怪しく動かしている。とっさに、剣を合わせている兵士を盾にできる位置に身をかがめる――と、乾いた爆発音がした。聞きなれたマスケット銃の音ではないが、銃だ。一発、二発。盾にした兵が銃を受け、踊るように跳ねて倒れた。
小柄な兵士が手に持っている筒のようななにかを投げ捨てた。やはり、銃だ。しかしかなり小型で、見たことのないもの。
「なんて素敵な
フィルバートは返事をしなかった。驚きもしなかった。ほぼ、予想通りの人間だったからでもあるし、女性が剣を抜いて自分に向かってきたからだ。ガキッと固い音ともに剣がぶつかり合う。二度、三度と剣を合わせると、サーレンがなかなかの剣の使い手であることがわかった――後退してフィルから離れ、反撃に転じるための距離を取ろうとする冷静さもある。複数人を同時に相手にしているフィルは、そうさせるわけにはいかなかったので、さらに激しく剣をふるい続けた。長年の鍛錬がわかる剣さばきで、しかもフィルほどの剣豪に対しても臆することなく剣をまじえられるだけの経験を積んでいると見えた。両者の実力差も熟知していて、ほかの兵士からの攻撃にまぎれてうまくミスを誘うような方策を取っている。
フィルは作戦を変え、彼女のほうに一歩踏み込んで、残り二名の兵士にわざと小さな隙を見せた。兵士として正規の訓練を受けると、あらゆる攻撃に対してそなえられる一方で、敵のこうした隙を見逃せなくなる。彼の作った隙は左側にあったが、そこに誘われた兵士を一度見逃してから、もう一人の右側の兵士が、同僚の攻撃を邪魔しないよう、一歩身を引いたのを確認した。次の動きはひとつの流れるような完成されたものだった――左側の兵士が振り下ろした刃を間一髪でかわし、右側の兵士の体重をかけた後ろ足を払ってよろめかせ、その頭から肩を大きく切り裂き、もう一度左側の兵士に向かって弾みをつけて一気に剣を突き上げた。〈
左足で相手を押しやって剣を引き抜き、同時に身体をくるりと向けて、フィルは女に向かった。
「わたくしとの手合わせを残してくださったのを、光栄だと思わなければいけませんわね」
一般兵の軍服姿でも寵姫は優雅だったが、その声は抑えきれない恐怖に震えていた。それでも、逃げだしたり命乞いをしたりしないのだから、大したものだと言えただろう。
「最後に、聞いてもようございますか? なぜ、戦うわたくしを見て驚かなかったのかを」
「以前、王の近くにいるあなたから、香水にまぎれてかすかに
銃撃を避けられたのも、彼女の手の内をすでに想像していたおかげでもある。鍛錬を積んだとはいえ、あるいは積んだからこそ、女性であるサーレンが男性の剣士を倒すことはかなり困難なことと知っているはずだ。そういった前提があり、しかも色香で相手の油断を誘うこともできない場合、彼女はおそらく毒か飛び道具を使うだろうと考えた。
サーレンはさらに二挺の短銃を構えた。狙いをさだめるように一、二拍の間があり、灰色の目がちらりとフィルの背後に向けられた。そこに、もう一人の兵がいる。彼女がしかけた会話は、時間稼ぎのためだった。