6-1. リアナの目覚め、妖精の土地 ①
文字数 2,191文字
長い夢を見ていたような気がする。雪と、炎と、灰の夢だ。
額の奥でなにかが弾けるような感覚とともに、リアナは目を覚ました。指がぴくりと動き、どうやって筋肉を動かすのか思いだそうと苦労しながらまばたきをする。
「リアナ!」
そう名前を呼ばれて、声を出すよりも早く、誰かに抱きしめられた。「ああ、竜祖よ、感謝します……!!」
自分の頬が、その誰かの涙で濡れた。腕をなんとか持ちあげて、自分に覆いかぶさっている男の背中をぽんぽんと叩いてやった。
名前を呼んであげたいけれど、すぐには声が出てこない。
「……フィル」
ほとんど唇を動かしただけなのに、彼はそれを読みとった。「リアナ」温かい甘い声が、もう一度名前を呼んでくれた。
大切なことを思いだした。呼びたい名前はもうひとつある。〈呼 ばい〉の通路を苦労して開き、なじみのある感覚に身を任せた。通路はとても細く弱い。彼に届くといいけれど、と思った。きっと自分の身を心配しているだろう。
フィルが起こしてくれて、リアナは寝台の上に半身を起こした。首をひねってぐるりと部屋のなかを見まわす。一瞬、〈隠れ里〉のツリーハウスを思いだしたのは、部屋のほとんどがマツのような明るい色の木材でできていたからだ。ただ、もっと洗練されていて広く、美しい。寄木細工の優雅な床、灰色の圧縮木材でできた暖炉、丸いガラス窓。蜂の巣のような六角形の部屋の真ん中にはらせん状の階段があり、上から光がさしこんで水玉の影を作っていた。
「ここは……」ようやく、声が出た。
「オンブリア内、ニザラン自治領の東端」彼が言った。「〈鉄 の妖精王〉の宮廷です。ここは、王があなたに用意した住居で、七人の近衛兵が守っています」
ニザラン。口のなかでくり返した。それでは、目的地にはなんとかたどり着いたわけだ。
フィルバートは寝台から離れ、とりつくろうように鼻をすすると、入り口に目をやった。「あなたが目ざめたことを、王に知らせないと」
フィルは見慣れない服を着ていた。七分そでの、襟のないリネンのシャツに、細身のズボン。やわらかそうな革のブーツ。帯剣はしているが、いつものジャケットがないので軽装に見える。
巻きもどるように、すこしずつ記憶がよみがえってきた。城を出て生きのびることをデイミオンと約束して、フィルと西を目指したこと。商人ヴェスランの協力。宿でフィルの血を飲んだこと。追手に襲われ、険しい北の峠越えを余儀なくされたこと。雪と雷雪。そのあとのことは、あまり思い出せない。ところどころ記憶があいまいなのは、自分がデーグルモールになりかかっていたときなのだろう。はっと腕を見ると、黒い樹の紋様は消えていなかったが、身体のなかの氷のような冷たさや、血を飲みたいという恐ろしい衝動は感じなかった。心底ほっとした。
寝台の上で、自分の様子を確認してみる。草色の簡素な部屋着を着せられており、髪はもつれもなくさらさらしていた。彼女の視線に気づいたのか、フィルがさりげなく言った。
「清拭 をしたのは王の女官です。髪はおれが」
「ありがとう」
髪だけでも、すこし恥ずかしい。リアナはフィルから目をそらし、武骨な指を見ないようにした。
優雅な格好の女官が現れ、食事と着替えを置くと、「お済みのころに、王がお見えになります」と言って出ていった。
服と同様、食事も素朴なものだった。ハーブ入りの温かいフラットブレッドに、茸のスープ、クリームとシロップのかかった器いっぱいのベリーとリンゴ。パンには香りのいいオリーブオイルが添えられ、スープのなかには花びらのような形の見知らぬ茸が入っている。その香りにひさしぶりに空腹を感じ、おそるおそる口に運んでみた。茸の歯ごたえとともにあっさりした塩味を感じた。
味を感じる。それは、なかなか感動的な体験だった。思わず、まじまじと木の匙を見てしまう。
「目の色がもとに戻っている」
リアナが食事をとるのを横で見ていたフィルが、そうつぶやいた。「灰色に変わったときには、ヒトの食事は摂 れなかった」
それはなかばひとり言だったが、リアナの記憶を呼び覚ますのには十分だった。灰と泥の味しかしない食事。ふつうの空腹感はなく、まったく違う種類の飢えと渇きに襲われていた。
「雪山のあいだの記憶が、ほとんどないの。わたしはデーグルモールになりかかっていた……」
「ええ」
「そしてあなたの血を飲んだ」
フィルはうなずいたが、「話をしてもいいけど、できればもう少し食べて」とうながした。
見守られながら食べるのはすこしばかり居心地が悪い。だが、手と口を動かしているとしだいに食事に慣れてきた。それを見て、フィルはようやくこれまでのことを説明する気になったようだった。
彼女の記憶があいまいになっている部分を補うように、雷雪に遭ったあとで灰死病の症状が出現したことを話してくれた。症状だけの淡々とした説明だったが、リアナの食欲を失わせるには十分だった。死にかけのゾンビになりつつあるだけでも世をはかなみたくなるのに、目ざめてみたら致死の病になっていたというのは、自分のことながらあまりにも酷ではなかろうか。
「でも、本当に……?」
匙を置いたリアナは考えこんだ。
「デーグルモールのことは間違いないけど、灰死病? ……あれは致死の病のはず。でも、わたしは生きていて、隔離もされていない。あなたも……」
額の奥でなにかが弾けるような感覚とともに、リアナは目を覚ました。指がぴくりと動き、どうやって筋肉を動かすのか思いだそうと苦労しながらまばたきをする。
「リアナ!」
そう名前を呼ばれて、声を出すよりも早く、誰かに抱きしめられた。「ああ、竜祖よ、感謝します……!!」
自分の頬が、その誰かの涙で濡れた。腕をなんとか持ちあげて、自分に覆いかぶさっている男の背中をぽんぽんと叩いてやった。
名前を呼んであげたいけれど、すぐには声が出てこない。
「……フィル」
ほとんど唇を動かしただけなのに、彼はそれを読みとった。「リアナ」温かい甘い声が、もう一度名前を呼んでくれた。
大切なことを思いだした。呼びたい名前はもうひとつある。〈
フィルが起こしてくれて、リアナは寝台の上に半身を起こした。首をひねってぐるりと部屋のなかを見まわす。一瞬、〈隠れ里〉のツリーハウスを思いだしたのは、部屋のほとんどがマツのような明るい色の木材でできていたからだ。ただ、もっと洗練されていて広く、美しい。寄木細工の優雅な床、灰色の圧縮木材でできた暖炉、丸いガラス窓。蜂の巣のような六角形の部屋の真ん中にはらせん状の階段があり、上から光がさしこんで水玉の影を作っていた。
「ここは……」ようやく、声が出た。
「オンブリア内、ニザラン自治領の東端」彼が言った。「〈
ニザラン。口のなかでくり返した。それでは、目的地にはなんとかたどり着いたわけだ。
フィルバートは寝台から離れ、とりつくろうように鼻をすすると、入り口に目をやった。「あなたが目ざめたことを、王に知らせないと」
フィルは見慣れない服を着ていた。七分そでの、襟のないリネンのシャツに、細身のズボン。やわらかそうな革のブーツ。帯剣はしているが、いつものジャケットがないので軽装に見える。
巻きもどるように、すこしずつ記憶がよみがえってきた。城を出て生きのびることをデイミオンと約束して、フィルと西を目指したこと。商人ヴェスランの協力。宿でフィルの血を飲んだこと。追手に襲われ、険しい北の峠越えを余儀なくされたこと。雪と雷雪。そのあとのことは、あまり思い出せない。ところどころ記憶があいまいなのは、自分がデーグルモールになりかかっていたときなのだろう。はっと腕を見ると、黒い樹の紋様は消えていなかったが、身体のなかの氷のような冷たさや、血を飲みたいという恐ろしい衝動は感じなかった。心底ほっとした。
寝台の上で、自分の様子を確認してみる。草色の簡素な部屋着を着せられており、髪はもつれもなくさらさらしていた。彼女の視線に気づいたのか、フィルがさりげなく言った。
「
「ありがとう」
髪だけでも、すこし恥ずかしい。リアナはフィルから目をそらし、武骨な指を見ないようにした。
優雅な格好の女官が現れ、食事と着替えを置くと、「お済みのころに、王がお見えになります」と言って出ていった。
服と同様、食事も素朴なものだった。ハーブ入りの温かいフラットブレッドに、茸のスープ、クリームとシロップのかかった器いっぱいのベリーとリンゴ。パンには香りのいいオリーブオイルが添えられ、スープのなかには花びらのような形の見知らぬ茸が入っている。その香りにひさしぶりに空腹を感じ、おそるおそる口に運んでみた。茸の歯ごたえとともにあっさりした塩味を感じた。
味を感じる。それは、なかなか感動的な体験だった。思わず、まじまじと木の匙を見てしまう。
「目の色がもとに戻っている」
リアナが食事をとるのを横で見ていたフィルが、そうつぶやいた。「灰色に変わったときには、ヒトの食事は
それはなかばひとり言だったが、リアナの記憶を呼び覚ますのには十分だった。灰と泥の味しかしない食事。ふつうの空腹感はなく、まったく違う種類の飢えと渇きに襲われていた。
「雪山のあいだの記憶が、ほとんどないの。わたしはデーグルモールになりかかっていた……」
「ええ」
「そしてあなたの血を飲んだ」
フィルはうなずいたが、「話をしてもいいけど、できればもう少し食べて」とうながした。
見守られながら食べるのはすこしばかり居心地が悪い。だが、手と口を動かしているとしだいに食事に慣れてきた。それを見て、フィルはようやくこれまでのことを説明する気になったようだった。
彼女の記憶があいまいになっている部分を補うように、雷雪に遭ったあとで灰死病の症状が出現したことを話してくれた。症状だけの淡々とした説明だったが、リアナの食欲を失わせるには十分だった。死にかけのゾンビになりつつあるだけでも世をはかなみたくなるのに、目ざめてみたら致死の病になっていたというのは、自分のことながらあまりにも酷ではなかろうか。
「でも、本当に……?」
匙を置いたリアナは考えこんだ。
「デーグルモールのことは間違いないけど、灰死病? ……あれは致死の病のはず。でも、わたしは生きていて、隔離もされていない。あなたも……」