10-4. 即位式、そして…… ⑤
文字数 1,772文字
彼女の心臓を持つフィルバートのことを、彼女は思った。いまはアエディクラにいるのだろうか。その空の下、レーデルルとともにいて、いったいなにを思うのだろう。
彼女の結婚式に、フィルも、レーデルルも、アーダルもいない。喜ばしい日のはずなのに、そこだけぽっかりと胸に穴があいたようで、さみしかった。
デイミオンもそう思っていたにせよ、口には出さなかった。かわりに熱くかさついた唇が冷たく柔らかい唇を覆う。最初は上唇を食むようにゆっくりと、そして角度を変えながら、何度もむさぼるように奪われて、リアナは彼の口のなかに熱いため息をもらした。長身の男に抱きかかえられるようにして、密着した腰から興奮が背中を這いあがっていくようだ。それでも、その感覚は彼女一人のもので、互いの興奮がまじりあってより強く欲望をかきたてられるようなかつての身体感覚は、もうなかった。苦しめられた時期もあったのに、〈血の呼 ばい〉があったころのあの感覚を懐かしくも思う。
この春が終わったら、また離ればなれ。そしてそれが十年続く。青年期の長い竜族にとってさえ、それは途方もなく長く感じられた。
「行きたくないの」キスの合間に、目も合わないほどの近さでささやいた。
「……ああ」
「ずっとここに、みんなの近くにいたい。デイのそばにいたい」
「わかっている」
たくましい腕がぐっと彼女を抱き、リアナは彼の胸に顔をすり寄せて甘えた。自分で言いだしたことだということは十分わかっていたが、デイミオンが諫めてくれるとわかっているからこそ、泣き言が言えるのだった。
「おまえが行く先で、数十万の民が飢えと渇きから救われ、戦争の可能性を減じることができる」
「うん」
「白竜のライダーや、〈日和見 〉たちを交代で送って、農業復興の目途が立ち次第、おまえが帰ってこられるように交渉しよう」
「うん」
「十度もの夏と秋を、俺と離れて過ごさせたりはしない」
「うん」リアナはそれを聞いて、安堵のため息をもらした。「信じてる、デイミオン」
デイミオンは彼女の顔をすくいあげて目を合わせた。「そしてこの春を、その次の春を、永遠にともに重ねよう」
黒い髪にも濃紺の長衣 にも、小さな白い花びらが落ちていた。自分もきっとおなじだろう。
リアナは夫の首に腕をまわし、甘い言葉と青い目の輝きにうっとりした――が、ばたばたという羽音に竜のうるさい鳴き声が聞こえてきて、とろけるような気分に水を差した。リアナは舌打ちしたくなった。竜舎と飼育人たちはなにをしているの? こんなにもたくさんの竜が集まって――竜?
「ところで」デイミオンは露台に両手をついて、彼女の身体を大きく外に傾けた。「その春のはじまりは今夜からなんだが」
「そうだったかしら?」バランスが崩れることが気にかかって、リアナは落ちつかなげに言った。「暦の上では、あと六日……五日先じゃない?」
「
「ねえ、それより下を見て。すごい数の古竜と飛竜が……なにがあったのか確認しなくちゃ」
竜たちの騒ぎに、宴席の貴族たちもなにごとかと窓に近づいてきていた。なかには古竜の主人たちもいるのだろう。デイミオンの背ごしに、ライダーたちの驚嘆と悲憤の表情が見えた。
デイミオンはそれを一顧だにせず、さらに彼女を圧 した。「その必要はない。俺が召 んだんだ」
「どういうこと……きゃあ!」リアナの疑問の最後は、悲鳴に取って代わった。デイミオンに抱えられ、露台から落ちていく。ほんの二、三秒のあいだ。そしてあっさりと、黒竜の背に着地した。
「レクサ、いい子だ」デイミオンが言うと、黒竜が「ギエェ」と従順に答えた。王国の第二の竜 は王の〈呼 ばい〉に従い、なめらかに旋回しながら上昇しはじめた。
露台に走り出てきたハダルクがなにかを叫んでいた。デイミオンにはたぶん聞こえているのだろうが、制止を無視してにっこりと手など振ってやっている。
「レクサはハダルクの竜なのに……」
「ジジイたちのくだらん長話で、このまま夜中まで待たされるなんてごめんだからな。早く二人きりになりたい」
首筋に顔をうずめてくる男に、リアナは無駄な抵抗をこころみた。「でも、宴席は? 最後の挨拶も……デイ、待って」
そう言っているあいだにも、黒竜は上昇して城を離れていく。
「いいや」デイミオンは黒髪をなびかせて笑った。「もう一秒も待てない」
彼女の結婚式に、フィルも、レーデルルも、アーダルもいない。喜ばしい日のはずなのに、そこだけぽっかりと胸に穴があいたようで、さみしかった。
デイミオンもそう思っていたにせよ、口には出さなかった。かわりに熱くかさついた唇が冷たく柔らかい唇を覆う。最初は上唇を食むようにゆっくりと、そして角度を変えながら、何度もむさぼるように奪われて、リアナは彼の口のなかに熱いため息をもらした。長身の男に抱きかかえられるようにして、密着した腰から興奮が背中を這いあがっていくようだ。それでも、その感覚は彼女一人のもので、互いの興奮がまじりあってより強く欲望をかきたてられるようなかつての身体感覚は、もうなかった。苦しめられた時期もあったのに、〈血の
この春が終わったら、また離ればなれ。そしてそれが十年続く。青年期の長い竜族にとってさえ、それは途方もなく長く感じられた。
「行きたくないの」キスの合間に、目も合わないほどの近さでささやいた。
「……ああ」
「ずっとここに、みんなの近くにいたい。デイのそばにいたい」
「わかっている」
たくましい腕がぐっと彼女を抱き、リアナは彼の胸に顔をすり寄せて甘えた。自分で言いだしたことだということは十分わかっていたが、デイミオンが諫めてくれるとわかっているからこそ、泣き言が言えるのだった。
「おまえが行く先で、数十万の民が飢えと渇きから救われ、戦争の可能性を減じることができる」
「うん」
「白竜のライダーや、〈
「うん」
「十度もの夏と秋を、俺と離れて過ごさせたりはしない」
「うん」リアナはそれを聞いて、安堵のため息をもらした。「信じてる、デイミオン」
デイミオンは彼女の顔をすくいあげて目を合わせた。「そしてこの春を、その次の春を、永遠にともに重ねよう」
黒い髪にも濃紺の
リアナは夫の首に腕をまわし、甘い言葉と青い目の輝きにうっとりした――が、ばたばたという羽音に竜のうるさい鳴き声が聞こえてきて、とろけるような気分に水を差した。リアナは舌打ちしたくなった。竜舎と飼育人たちはなにをしているの? こんなにもたくさんの竜が集まって――竜?
「ところで」デイミオンは露台に両手をついて、彼女の身体を大きく外に傾けた。「その春のはじまりは今夜からなんだが」
「そうだったかしら?」バランスが崩れることが気にかかって、リアナは落ちつかなげに言った。「暦の上では、あと六日……五日先じゃない?」
「
今夜
だ」「ねえ、それより下を見て。すごい数の古竜と飛竜が……なにがあったのか確認しなくちゃ」
竜たちの騒ぎに、宴席の貴族たちもなにごとかと窓に近づいてきていた。なかには古竜の主人たちもいるのだろう。デイミオンの背ごしに、ライダーたちの驚嘆と悲憤の表情が見えた。
デイミオンはそれを一顧だにせず、さらに彼女を
「どういうこと……きゃあ!」リアナの疑問の最後は、悲鳴に取って代わった。デイミオンに抱えられ、露台から落ちていく。ほんの二、三秒のあいだ。そしてあっさりと、黒竜の背に着地した。
「レクサ、いい子だ」デイミオンが言うと、黒竜が「ギエェ」と従順に答えた。王国の
露台に走り出てきたハダルクがなにかを叫んでいた。デイミオンにはたぶん聞こえているのだろうが、制止を無視してにっこりと手など振ってやっている。
「レクサはハダルクの竜なのに……」
「ジジイたちのくだらん長話で、このまま夜中まで待たされるなんてごめんだからな。早く二人きりになりたい」
首筋に顔をうずめてくる男に、リアナは無駄な抵抗をこころみた。「でも、宴席は? 最後の挨拶も……デイ、待って」
そう言っているあいだにも、黒竜は上昇して城を離れていく。
「いいや」デイミオンは黒髪をなびかせて笑った。「もう一秒も待てない」