7-2. 喪失 ③
文字数 2,624文字
子どもが生まれてもいないのに結婚 という形にこだわったのは、リアナが戻ってきたときの復権を見すえての対外的な意味合いもあった。つまり、病気の療養中で一時的に王城を離れているだけで、この国の王はいまでもリアナなのだという彼の政治的主張のあらわれだ。しかし、五公十家の長老たちに指摘されるでもなく、そんなものはままごと遊びのようなものだ。彼は、リアナが即位するはるか前からオンブリアでもっとも王に近い存在であり、すでに自分の母を含めた四人の王のそばで、〈摂政王子〉として王権を補佐してきた。そんな彼が、ついに王婿ではなく王としてオンブリアを統治する第一歩だと、周囲はみなしているはずだった。
これまで自分とリアナがやってきた政治的戦略が、ここにきてこんな形で彼を苦しめるとは、皮肉なことだった。
それでも、リアナをひそかにフィルとともに西へ逃がしてからというもの、彼はこの部屋の改装に熱心に取り組んでいた。やれ壁紙がどうの、床材がどうのといった、これまで毛ほども気にしてこなかったことにあれこれと口を出し、いちいち業者に自分から指示をして、いかにも夫婦の居室に見えるようにと気を配ってきた。
そのはずなのに、部屋はといえば彼が運び入れたリアナのわずかな私物があるばかりで、家具さえ搬入されていなかった。窓の近くにわたっていくと、月明かりで青くなにかが光った。バネのついた木の髪どめで、謁見の予定がないときにリアナがよくそれで髪をまとめていたのをおぼえていた。銀ほど見栄えはしないが、「とにかく全部まとまるから」と言っていたっけ。
細くて量が多くて、ブラシをかけずに寝ると鳥の巣のように絡んでしまうあの髪。悪態をつく彼女を見ながら、ついいたずら心を出してくしゃくしゃと頭を撫でると、彼女がまた怒って……。
こんな部屋は彼女にふさわしくない、とデイミオンは怒りをおぼえた。彼女が王であろうがなかろうが。
自分の妻が帰ってくるはずの場所だ。そう、彼女はここに、自分の元に帰ってくるのだから。怒りが強まり、戦慄で髪が逆立つのを感じた。怒りは強い力を呼び起こすが、同時にあまりにも増幅されると竜術に制限をかけてしまう。感情を制御することは、ライダーならだれでも身に着けている初歩の技術だった。
過去や未来にではなく、今ここに存在している自分の身体にだけ注意を向けることが大切だ、と師から教わったとおりに繰りかえす。沸き立つ溶岩を遠く上空から眺めるようなイメージを思い浮かべる。いつもと同じに。しばらくすると、感情が落ち着いてくるのが確認できた。
だが、それはだんだんと難しくなりつつある。リアナのことだけではなく、アーダルが成竜となってからというもの、徐々にその制御が追いつかなくなってきていることも理由だった。
〈呼 ばい〉が遠くて制御に苦労している、とリアナに打ちあけたのは、はじめての共寝のあとのことだった。柔らかな雨のなかに閉じこめられたようなガラスの温室。口うつしで味わったオレンジの蜂蜜のほろ苦い甘み。
――あれだけの雄竜だもの。制御するのは、大変だと思うわ。
彼女はそう言っていた。……
リアナの私物はひとまず自分の部屋に収容させるよう、明日には侍従長に指示しようと考えながら自室に戻った。燭台のほのかな明かりだけが残っていたが、彼が指を動かすと暖炉がぱあっと燃えあがる。巨大な書き物机には未処理の書類がまだいくつも積まれており、腰掛けて一番上の書類に目を通そうとした。だが、なんとなく持ってきてしまった髪留めを指で撫でているだけで、内容はまったく頭に入ってこなかった。
静かな夜で、風の音もほとんど聞こえない。デイミオンはぼんやりと窓の外の漆黒に目を凝らしたが、内心では言いようのない不安を感じはじめていた。書類を確認するか、あるいはあきらめて就寝するかすればいいのだが、そのどちらにも決心しかねて、漠然とした焦りだけが心を占めている。
どうやら、〈呼 ばい〉がほとんど切れかかっているようだ、と、デイミオンはついに認めざるを得なかった。しばらくは追手がかかるのを恐れて呼びかけをしていなかった。それでも彼女の無事を示す〈呼 ばい〉はつねにすべての呼び声のもっとも中心にあった。それを、いま感じとることができない。慎重に呼び声を強めてみるが、彼女の存在は霧の向こうのように遠かった。力の源である白竜が近くにいるはずなのに。
もしかして、なにか危険な目に遭っているのでは、と思うことは一度や二度ではない。そのたびにフィルバートがついていることを思い出して自分を抑えようと努めてきた。もしも彼女を守りきれなかったとしても、少なくともフィルはそのことを伝えに戻っただろう。たとえそれが彼自身の処刑を意味したとしても。そういう男だった。
それでも、不安をぬぐいきれない。もはやどんな理屈も口実も用意できなくても、彼女を追って西へ向かおうかと考えてしまう。少なくともこんなふうに何日も自問自答していらだちのなかで夜を過ごすよりはずっとましに思える。
(リアナ、俺は――)
自分でも言葉にできない激情に駆られてはっと立ちあがるのと、扉が激しく叩かれる音とが重なった。それに言いあらそうような女性と男性の声。子どもの泣き声。
デイミオンの心臓が早鐘を打った。周囲のすべての音が消え、蜂蜜のなかを進むように自分の動きが遅く感じられた。入室の許可を求める近衛士の声に、ほとんど無意識にうなずく。
開いた扉から転がるように入って来たのは、真っ青な顔をした叔母グウィナと、彼女に手を引かれて火がついたように泣き叫んでいる息子、ナイメリオンだった。
「この子が」前置きもなく、グウィナが息を切らせながら言った。「しばらく前に頭が痛いと泣き出して。あなたからの〈呼 ばい〉だと言うの。それで連れてきたの……」
その瞬間、デイミオンは子どもを見てすべてを悟った。そして、そのことにグウィナも気がついたらしかった。
「おお、なんと言うことなの。これは――陛下は――」
「リアナとの〈呼 ばい〉が切れた」デイミオンはかすれた声で言った。「継承権はナイメリオンに移った」
「言わないでちょうだい」グウィナは白い手で顔を覆って泣き崩れた。
「リアナ陛下、ああ、なんてむごいことなの。あなたを置いて、そんな……デイミオン」
取りすがる叔母を抱きかえすこともできず、デイミオンはぼうぜんと立ちつくしていた。
これまで自分とリアナがやってきた政治的戦略が、ここにきてこんな形で彼を苦しめるとは、皮肉なことだった。
それでも、リアナをひそかにフィルとともに西へ逃がしてからというもの、彼はこの部屋の改装に熱心に取り組んでいた。やれ壁紙がどうの、床材がどうのといった、これまで毛ほども気にしてこなかったことにあれこれと口を出し、いちいち業者に自分から指示をして、いかにも夫婦の居室に見えるようにと気を配ってきた。
そのはずなのに、部屋はといえば彼が運び入れたリアナのわずかな私物があるばかりで、家具さえ搬入されていなかった。窓の近くにわたっていくと、月明かりで青くなにかが光った。バネのついた木の髪どめで、謁見の予定がないときにリアナがよくそれで髪をまとめていたのをおぼえていた。銀ほど見栄えはしないが、「とにかく全部まとまるから」と言っていたっけ。
細くて量が多くて、ブラシをかけずに寝ると鳥の巣のように絡んでしまうあの髪。悪態をつく彼女を見ながら、ついいたずら心を出してくしゃくしゃと頭を撫でると、彼女がまた怒って……。
こんな部屋は彼女にふさわしくない、とデイミオンは怒りをおぼえた。彼女が王であろうがなかろうが。
自分の妻が帰ってくるはずの場所だ。そう、彼女はここに、自分の元に帰ってくるのだから。怒りが強まり、戦慄で髪が逆立つのを感じた。怒りは強い力を呼び起こすが、同時にあまりにも増幅されると竜術に制限をかけてしまう。感情を制御することは、ライダーならだれでも身に着けている初歩の技術だった。
過去や未来にではなく、今ここに存在している自分の身体にだけ注意を向けることが大切だ、と師から教わったとおりに繰りかえす。沸き立つ溶岩を遠く上空から眺めるようなイメージを思い浮かべる。いつもと同じに。しばらくすると、感情が落ち着いてくるのが確認できた。
だが、それはだんだんと難しくなりつつある。リアナのことだけではなく、アーダルが成竜となってからというもの、徐々にその制御が追いつかなくなってきていることも理由だった。
〈
――あれだけの雄竜だもの。制御するのは、大変だと思うわ。
彼女はそう言っていた。……
リアナの私物はひとまず自分の部屋に収容させるよう、明日には侍従長に指示しようと考えながら自室に戻った。燭台のほのかな明かりだけが残っていたが、彼が指を動かすと暖炉がぱあっと燃えあがる。巨大な書き物机には未処理の書類がまだいくつも積まれており、腰掛けて一番上の書類に目を通そうとした。だが、なんとなく持ってきてしまった髪留めを指で撫でているだけで、内容はまったく頭に入ってこなかった。
静かな夜で、風の音もほとんど聞こえない。デイミオンはぼんやりと窓の外の漆黒に目を凝らしたが、内心では言いようのない不安を感じはじめていた。書類を確認するか、あるいはあきらめて就寝するかすればいいのだが、そのどちらにも決心しかねて、漠然とした焦りだけが心を占めている。
どうやら、〈
もしかして、なにか危険な目に遭っているのでは、と思うことは一度や二度ではない。そのたびにフィルバートがついていることを思い出して自分を抑えようと努めてきた。もしも彼女を守りきれなかったとしても、少なくともフィルはそのことを伝えに戻っただろう。たとえそれが彼自身の処刑を意味したとしても。そういう男だった。
それでも、不安をぬぐいきれない。もはやどんな理屈も口実も用意できなくても、彼女を追って西へ向かおうかと考えてしまう。少なくともこんなふうに何日も自問自答していらだちのなかで夜を過ごすよりはずっとましに思える。
(リアナ、俺は――)
自分でも言葉にできない激情に駆られてはっと立ちあがるのと、扉が激しく叩かれる音とが重なった。それに言いあらそうような女性と男性の声。子どもの泣き声。
デイミオンの心臓が早鐘を打った。周囲のすべての音が消え、蜂蜜のなかを進むように自分の動きが遅く感じられた。入室の許可を求める近衛士の声に、ほとんど無意識にうなずく。
開いた扉から転がるように入って来たのは、真っ青な顔をした叔母グウィナと、彼女に手を引かれて火がついたように泣き叫んでいる息子、ナイメリオンだった。
「この子が」前置きもなく、グウィナが息を切らせながら言った。「しばらく前に頭が痛いと泣き出して。あなたからの〈
その瞬間、デイミオンは子どもを見てすべてを悟った。そして、そのことにグウィナも気がついたらしかった。
「おお、なんと言うことなの。これは――陛下は――」
「リアナとの〈
「言わないでちょうだい」グウィナは白い手で顔を覆って泣き崩れた。
「リアナ陛下、ああ、なんてむごいことなの。あなたを置いて、そんな……デイミオン」
取りすがる叔母を抱きかえすこともできず、デイミオンはぼうぜんと立ちつくしていた。