1-3. フィルと魚釣り ①

文字数 2,547文字

 森のへりまでたどり着いたのは真昼近くだった。

 歩きやすい、よく踏み固められた道からはじまって、しだいに小径がだんだん細くなっていき、まもなく林が途切れた。
 密集したミモザの藪が木漏れ日を通し、池までトンネルをつくっていた。森のなかとは思えないほど開けていて、目を凝らすとアネモネやノイバラ、紫の花をつけた野生の林檎まである。春の森がこんなに心浮きたつ場所だということを、リアナはしばらく忘れていた。

 この森の東側に、釣りにちょうどいい池があるらしい。フィルは森のなかを歩きながら、南にはない植物を見つけてはリアナに名前を教えてくれた。そのクライマックスがこの黄金色のトンネルというわけだ。

「城からそんなに離れてないのに、こんな森があるなんて……」腕を伸ばして、木漏れ日がつくる光と影を楽しむ。
「ここはあなたのとっておきの場所でしょ?」
 通りすがりにミモザの黄色い花房がドレスをかすり、一面に花粉をまぶした。

 里にいたころのように、踊るようにふわりと一回転するリアナを、フィルは笑顔で迎える。「気をつけて。そこに枝が……、ああ、遅かった」

 フィルの近くに戻るまでに、ミモザの枝を折ってしまった。樹液だろうか、つんと鼻にくる匂いがこぼれる。
「あなたが山のなかを駆けまわっていたことを忘れていましたよ」
 腕についた花粉を、フィルが払ってくれた。「体重がない人のように回るんだから……筋肉をしっかりつけているおかげでしょうね」
「誰が山育ちの子猿ですって? 不敬罪を適用してあげるべきかしら?」笑顔のまま、ぐっとにらんでやる。
「それは勘弁してほしいな」
 フィルもおどけて笑った。形のいい口もとがデイミオンに似ている。血縁関係を感じさせない二人の、はじめて発見した共通点に、リアナはふとどきっとしてしまう。同時に、気恥ずかしくもあった。朝の抱擁は、小さな女の子が兄に抱きつくようなものではあったが――それでも、フィルは単なる保護者ではなく、デイミオンと同じような男性なのだと気づかされた。

 そして、ゆくてに小さな湖が開けた。
 岩山と崖に囲まれた、美しい湖だ。花が落ちて実がつきかけた桜が、崖から湖面近くに傾けるように一本、立っていた。

「ここが、その湖? 何が釣れるの?」
「カワカマスの主がいるはずだよ……それにウナギも」
「ウナギ!」リアナは叫んだ。「本当にいる? わたし、見たことないわ」
 というよりも、隠れ里では魚を釣ったことがない。

 フィルは湖に突き出ている細長い地面のほうへとリアナを招いた。ブーツを脱いでズボンを膝の上までまくり上げる。それを見て、リアナも同じようにした。スカートの裾をひっぱって後ろで結ぶ。

 釣り竿は、重りなど少しずつ違うものが何本か用意してあった。フィルは手慣れた様子で竿を確かめたあと、そのうちの一本を彼女に渡した。
 
「竿をかるく握って」フィルは少し離れたところから指示した。「人差し指で、軽く抑えるようにして」
「こう?」
「そう。左手を下げて、竿の先端を引っ張って。軽くしなるくらいに……」
 リアナが言われたとおりに握りなおそうとした。

「こうするんです」がさりと身体を動かす音がして、フィルがうしろに立ったことがわかった。彼はそのままリアナの手の上から竿を握った。
「このあたりで手を放して、鉤を投げる……それから、右手で竿をちょっと押して……うん、うまく落ちた」
 ほとんど触れそうなほど近くに、熱い体温を感じる。フィルは男性なのだ。デイミオンと同じに。

「フィル」リアナは思わず呼びかけた。
繁殖期(シーズン)のあいだ……あなたはどうしていたの?」

 そうとわからないほどかすかに、フィルの緊張を感じた。

「デイミオンは毎晩、テキエリス家に通っているわ。貴族たちは、みんなそうしている……それが繁殖期(シーズン)のつとめだから……でも、あなたは?」
 後ろから抱かれるような格好をしているときにすべき話ではないと思ったが、いまを逃せば二度と聞けないかもしれない。

「フィル、あなたは――」

 答えを求めるように、首をまわして見あげた。フィルの顔からはおよそ表情というものが読み取れなかった。
「昼から聞きたいと思うような話じゃないですよ」
 やんわりと言い、リアナから手を放して後ずさった。「……もう大丈夫みたいですね」

「相手を詮索するつもりじゃないのよ」リアナはあわてて言った。
「パートナーがいるなら、それはそれでいいの。でも、夜会でもぜんぜん姿を見なかったから――ねえ、恋愛のことで〈ハートレス〉が差別されているとか、そんなことはないわよね? わたし、気になって――」
「リアナ、俺は――」
 フィルがさえぎるように声をかけたとたん、釣り糸がぴんと張り、驚いたリアナが声をあげた。
「きゃ……」
「放さないで!」フィルが言った。
「獲物がかかったんだ。ここからが勝負ですよ」
 フィルが後ろにまわり、もう一度リアナの手の上から釣竿を握りしめてくれた。獲物の力は驚くほど強かったが、それ以上にフィルの力が強い。はじめての感覚に、リアナは思わず会話のつづきを忘れた。
 水面が大きく波打ち、ばしゃばしゃと音を立てる。
「急に動かないで……脇をしめて、小さく引いて」
 気がそれたのがいけなかった。竿がぐいと引っ張られて転びそうになり、もう一度悲鳴を上げる。

「何がかかったのかな? 大きなナマズかなにかかも」

「ナマズ!」リアナの手が思わず緩んだ。
「手を放さないで」フィルがすぐ耳もとでささやく。声に面白がるような雰囲気がある。「本気にしたんですか? ここの池にそんな大物はいませんよ」
「意地悪……!」

 それにしても、ずいぶん重く感じる。ぐいぐいとひっぱられる感じがあって、水中でまだ泳ぎまわっているようだ。リアナはフィルの指示に合わせて少しずつ引き寄せ、釣り竿が折れないよう腕を伸ばし、魚が暴れ疲れるまでそれをくり返した。
 タイミングを見計らったフィルが水中にざっぶと足を踏み入れ、柄のついた網を使って魚を取りあげた。
 逃げようとのたうち回る魚の動きが、手に伝わってくる。それは、レーデルルから感じる〈()ばい〉の力にも似ている。ぴんと張りつめた生命の力だ。

「やったわ!」
 フィルの指示で魚を締めたときには、興奮と疲労で手が震えていた。
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登場人物紹介

リアナ・ゼンデン

本作の主人公。竜騎手(ライダー)にあこがれる平凡な田舎少女だったが、竜たちの王となる運命が待っていた。

すなおで活発、売られたケンカは買うタイプ。

養父の教育もあり、なかなかの政治手腕を見せることも。

デイミオン・エクハリトス(デイ)

フィルに続き里にリアナを迎えに来た竜騎手。彼女の次の王位継承権を持つ。

王国随一の黒竜アーダルの主人(ライダー)。

高慢な野心家で、王位をめぐってリアナと衝突するが……。

群れを率いるアルファメイルで、誇り高く愛情深い男でもある。

フィルバート・スターバウ(フィル)

襲撃された里からリアナを救いだした、オンブリアの元軍人。彼女をつねに守るひそかな誓いを立てている。

ふだんは人あたりよく温厚だが、じつは〈竜殺し〉〈剣聖〉などの二つ名をもつ戦時の英雄。

リアナに対しては過保護なほど甘いものの、秘密をあかさないミステリアスな一面ももつ。

レーデルル(ルル)

リアナが雛から育てた古竜の子ども。竜種は白で、天候を操作する能力をもつ。

グウィナ卿

五公(王国の重要貴族)の一員で、黒竜のライダー。私生活ではデイ・フィルの愛情深い叔母、二児の母。

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