2-1. 嵐の夜 ②
文字数 3,272文字
フィルがレーデルルと走り竜 を落ち着かせている間に、リアナは小屋に入って明かりを探した。昼にしか訪れたことがない小屋のなかは、雨のせいで暗く、ランタンを探すのに時間がかかる。濡れて冷えた手で火を点けようと苦労していると、扉が開く音がした。一瞬、ざあっという雨音が響き、扉が閉まると小さくなって、世界が切り離されたような気がした。フィルが背中側からささやいた。
「リアナ――明かりを、はやく」どこか、切羽詰まったような声だった。
ほとんど黒く見える髪から、水滴が勢いよく滴っている。すぐ脇の腰掛け に浴布 が積んであるはずだ。はやく、渡してあげないと、と思うのだが、なぜか手が動かなかった。
いま彼が、見たことがないような顔をしている。そんな気がしたのだ。
フィルは布をつかんでリアナに渡した。自分も乱雑に髪をぬぐう。
「すみません」
そして、唐突にそんなことを言う。
「たまには、こういうことだってあるわよ」気楽に聞こえるように、リアナは言った。「朝は天気が良かったもの。こうなるなんて、あなたにも……」だが、フィルがそれをさえぎった。
「こうなることをわかってたんです。嵐になることを、俺が知らないはずがないでしょう? 俺は、兵士だ」
「フィル」ふいに口が乾いてしまったように、うまく言葉が出ない。
自分の髪からも水滴がしたたって、顔をつたって落ちる。いつもならまっさきにタオルで髪をぬぐってくれる青年は、ただ黙って声をひそめた。
「俺が最初からこうするつもりだったとは思わないんですか? こうやって、誰にも知られず、どこにも声が届かないような場所で、あなたを……」
「どうしてわたしを試すようなことを言うの? フィル、わたしにしてほしいことがあるのならそう言って。思わせぶりに、自分だけが悪者みたいに言うのは聞きたくない」
今まで一度も感じたことのないような激情を感じた。最初は怒りだと思った。フィルの人当たりの良さは、誰に対しても一定以上は踏みこませないための壁のようだと、ずっと思ってきたからだ。だが、実際にはもっとさまざまなものが入り混じっている。困惑。恐怖。熱望。……自分はたしかに、なにかをフィルに望んでいる。でも、なにを?
それを知りたいという思いと、知ってしまったらもう戻れないのではないかという漠然とした考えが浮かんだ。
「明かりを」かすれた声で、フィルがもう一度そう言った。
ランタンを二人の顔のあいだにかかげて、リアナはじっとかれの顔を見た。ハシバミ色の瞳に映るもの。かれも、なにかを怖がっている?
「嵐が怖いんです」彼女の疑問に気がついたかのように、フィルがそっと言った。「雷雨と泥とぬかるみが」
「……戦争のせい?」
フィルは彼女の手からランタンを取ってベンチに置いた。横顔が一瞬照らされ、また翳 った。「俺は指揮官だったのに、自分の部隊を守れなかった。それを思い出さずにいられない。いつも、自分だけが生き延びてしまう」
「あなたは生き延びるべきだったのよ」
フィルは力なく首を振る。
「死は怖くない、炎も爆撃も、絶 えた補給線すらもう怖いとは思わない。でも、こんな天候は自分が無防備になったようで、嫌なんです。……竜族のどんな力も持たず、手は血にまみれて、そのくせ今でも戦場を懐かしんでいる。あんなに悲惨な場所なのに、そこでなら、自分を偽らなくてすむから――リアナ、俺は怪物だ」
絞りだすような声に、リアナは絶句した。はじめて聞く、悲鳴のようなフィルの本音に、胸の真ん中を射抜かれたような気がした。
「いいえ、あなたは竜族の男よ」浮かびあがる頬を手にはさむ。髭の剃りあとがかすかにざらついた。
「怪物なんかじゃない。この手でほかの命を何度も救ったわ。わたしの命も」
息がかかるほど近くに、熱の塊のような男性の体温を感じる。フィルはためらいがちに彼女の腰に手をまわしたが、それはつま先立っている彼女を支えるための、触れるか触れないかの接触だった。
「あなたがなにを怖がっているのか、分かったわ。……あなたは自分が怖いのね」
リアナは彼の目をしっかりと見つめて、ついに言った。
「フィル、わたしが欲しい?」
その言葉を聞いたフィルバートは、ほとんど殴られたといっていいほど衝撃を受けた顔をした。それから彼女の腰を抱く腕がぐっと強まって、緑まじりのハシバミの瞳が燃えた。
「ほかの誰よりも――この世の何よりも」
低く切実な声でそう言うと、リアナの耳の上の髪に指を通し、てのひらを首筋にあてがって、深くふかく口づけた。その動きでふたりの髪から水滴がまた流れ落ちる。
口のなかのやわらかい粘膜を舌でつつかれ、さらに舌どうしが絡まる。幼竜が水を飲むような、湿った水音が響く。強く抱き寄せられ、濡れた服を挟んでふたりの身体がぴたりと密着して、リアナはもうほかのことはなにも考えられなくなった。
キスなら今までにもしたことがある。デイミオンのキスは、唇が優しく押しあてられるだけのものだった。だがこのキスはそんなものとはまったく違っていた。導火線に火がついて、全身が一気に目ざめたかのようだ。自分の心臓が激しく打つのを聞き、濡れた布ごしに身体が押しつけられるのを感じた。フィルは片手で彼女の首筋を固定しながら、もう一方の手を背に当てて自分のほうへと引き寄せていた。
大きな手のひらが鎖骨のうえを撫で、そのまま、濡れたドレスのボタンをはずしていく。リアナはほとんどそれを意識もできず、ただ夢中で口づけを受けていた。繁殖期 の長い夜、デイミオンがなにをしているのかがはじめてわかった。そして、こんなことを好きでもないひととなんてできるはずがない、と怒りにも似た気持ちで思う。
たとえ領主貴族の、竜族の男の義務だとしても、この興奮とキスと手の熱さを感じられる女性だけが恋人なのだ。そんな単純なことが、いまはっきりとわかる。唇が触れあった瞬間、デイミオンとの〈呼 ばい〉が開かれたことを感じた。けれど、もう迷いはなかった。いまのリアナが欲しいのはフィルの指と唇だけだ。
「覚えていて。……たとえあなたが何者でも、俺はあなたのそばを離れない。ひとつしかない心臓も、俺の最期の息まですべて、あなたの持ち物だ。リアナ……リアナ」
「フィル」
「リアナ」
お互いの名を交わし、何度も口づけては、見つめる。それはリアナの知らない神聖な行為のようだった。けれど、キスも声もしだいに熱を帯びてくると、まるでよくない薬でもしみわたっていくかのように、快感を呼び覚ましはじめた。彼の声はペストリーよりも甘い、と女官たちが噂していたことがあったっけ。ぼんやりと思い出す。耳の中から身体中に注ぎこまれる甘さだ。
フィルは彼女の手に右手を重ね、口もとへ持っていくと、手のひらにキスをした。それから手首の血管をたどるように舌を這わせ、そこにも噛みつくようなキスをした。手に持った骨付き肉を、これから食べようとでもしているように見える。
おいしそうだな。どこから食べようか。そんな、肉食獣の欲望と好奇心とを同時に感じる目つきだ。
唇をあてたままその目をあげると、
「ここからは、もう、あなたの意志でも止められない。……泣いてもやめてあげませんから」とささやいた。
「望む……ところよ」
フィルの色気にあてられたのか、恥ずかしさが勝ったのか、なんだかおかしな応答をしてしまう。フィルは笑って彼女を抱きあげ、ほんの数歩しか離れていない寝台におろした。そして自分も服を脱ぎ、無造作に放ると、彼女の上に覆いかぶさる。裸の身体が動くと、しなやかな筋肉に目を奪われて、リアナはそのすべてを目で追っていた。自分のものとはまったく違う身体。緊張してなんと言えばいいのか、どうしていいのかわからない。激しい雨の音、フィルの重みで大きくきしむ寝台の音。消さずに残してある燭台の灯りが、琥珀色にあたりを照らしている。
粗末な寝台の上の本や上かけをフィルが足で払い落し、ばさばさっと音を立てて落ちたのが聞こえた。
それが、長い夜のはじまりだった。
「リアナ――明かりを、はやく」どこか、切羽詰まったような声だった。
ほとんど黒く見える髪から、水滴が勢いよく滴っている。すぐ脇の
いま彼が、見たことがないような顔をしている。そんな気がしたのだ。
フィルは布をつかんでリアナに渡した。自分も乱雑に髪をぬぐう。
「すみません」
そして、唐突にそんなことを言う。
「たまには、こういうことだってあるわよ」気楽に聞こえるように、リアナは言った。「朝は天気が良かったもの。こうなるなんて、あなたにも……」だが、フィルがそれをさえぎった。
「こうなることをわかってたんです。嵐になることを、俺が知らないはずがないでしょう? 俺は、兵士だ」
「フィル」ふいに口が乾いてしまったように、うまく言葉が出ない。
自分の髪からも水滴がしたたって、顔をつたって落ちる。いつもならまっさきにタオルで髪をぬぐってくれる青年は、ただ黙って声をひそめた。
「俺が最初からこうするつもりだったとは思わないんですか? こうやって、誰にも知られず、どこにも声が届かないような場所で、あなたを……」
「どうしてわたしを試すようなことを言うの? フィル、わたしにしてほしいことがあるのならそう言って。思わせぶりに、自分だけが悪者みたいに言うのは聞きたくない」
今まで一度も感じたことのないような激情を感じた。最初は怒りだと思った。フィルの人当たりの良さは、誰に対しても一定以上は踏みこませないための壁のようだと、ずっと思ってきたからだ。だが、実際にはもっとさまざまなものが入り混じっている。困惑。恐怖。熱望。……自分はたしかに、なにかをフィルに望んでいる。でも、なにを?
それを知りたいという思いと、知ってしまったらもう戻れないのではないかという漠然とした考えが浮かんだ。
「明かりを」かすれた声で、フィルがもう一度そう言った。
ランタンを二人の顔のあいだにかかげて、リアナはじっとかれの顔を見た。ハシバミ色の瞳に映るもの。かれも、なにかを怖がっている?
「嵐が怖いんです」彼女の疑問に気がついたかのように、フィルがそっと言った。「雷雨と泥とぬかるみが」
「……戦争のせい?」
フィルは彼女の手からランタンを取ってベンチに置いた。横顔が一瞬照らされ、また
「あなたは生き延びるべきだったのよ」
フィルは力なく首を振る。
「死は怖くない、炎も爆撃も、
絞りだすような声に、リアナは絶句した。はじめて聞く、悲鳴のようなフィルの本音に、胸の真ん中を射抜かれたような気がした。
「いいえ、あなたは竜族の男よ」浮かびあがる頬を手にはさむ。髭の剃りあとがかすかにざらついた。
「怪物なんかじゃない。この手でほかの命を何度も救ったわ。わたしの命も」
息がかかるほど近くに、熱の塊のような男性の体温を感じる。フィルはためらいがちに彼女の腰に手をまわしたが、それはつま先立っている彼女を支えるための、触れるか触れないかの接触だった。
「あなたがなにを怖がっているのか、分かったわ。……あなたは自分が怖いのね」
リアナは彼の目をしっかりと見つめて、ついに言った。
「フィル、わたしが欲しい?」
その言葉を聞いたフィルバートは、ほとんど殴られたといっていいほど衝撃を受けた顔をした。それから彼女の腰を抱く腕がぐっと強まって、緑まじりのハシバミの瞳が燃えた。
「ほかの誰よりも――この世の何よりも」
低く切実な声でそう言うと、リアナの耳の上の髪に指を通し、てのひらを首筋にあてがって、深くふかく口づけた。その動きでふたりの髪から水滴がまた流れ落ちる。
口のなかのやわらかい粘膜を舌でつつかれ、さらに舌どうしが絡まる。幼竜が水を飲むような、湿った水音が響く。強く抱き寄せられ、濡れた服を挟んでふたりの身体がぴたりと密着して、リアナはもうほかのことはなにも考えられなくなった。
キスなら今までにもしたことがある。デイミオンのキスは、唇が優しく押しあてられるだけのものだった。だがこのキスはそんなものとはまったく違っていた。導火線に火がついて、全身が一気に目ざめたかのようだ。自分の心臓が激しく打つのを聞き、濡れた布ごしに身体が押しつけられるのを感じた。フィルは片手で彼女の首筋を固定しながら、もう一方の手を背に当てて自分のほうへと引き寄せていた。
大きな手のひらが鎖骨のうえを撫で、そのまま、濡れたドレスのボタンをはずしていく。リアナはほとんどそれを意識もできず、ただ夢中で口づけを受けていた。
たとえ領主貴族の、竜族の男の義務だとしても、この興奮とキスと手の熱さを感じられる女性だけが恋人なのだ。そんな単純なことが、いまはっきりとわかる。唇が触れあった瞬間、デイミオンとの〈
「覚えていて。……たとえあなたが何者でも、俺はあなたのそばを離れない。ひとつしかない心臓も、俺の最期の息まですべて、あなたの持ち物だ。リアナ……リアナ」
「フィル」
「リアナ」
お互いの名を交わし、何度も口づけては、見つめる。それはリアナの知らない神聖な行為のようだった。けれど、キスも声もしだいに熱を帯びてくると、まるでよくない薬でもしみわたっていくかのように、快感を呼び覚ましはじめた。彼の声はペストリーよりも甘い、と女官たちが噂していたことがあったっけ。ぼんやりと思い出す。耳の中から身体中に注ぎこまれる甘さだ。
フィルは彼女の手に右手を重ね、口もとへ持っていくと、手のひらにキスをした。それから手首の血管をたどるように舌を這わせ、そこにも噛みつくようなキスをした。手に持った骨付き肉を、これから食べようとでもしているように見える。
おいしそうだな。どこから食べようか。そんな、肉食獣の欲望と好奇心とを同時に感じる目つきだ。
唇をあてたままその目をあげると、
「ここからは、もう、あなたの意志でも止められない。……泣いてもやめてあげませんから」とささやいた。
「望む……ところよ」
フィルの色気にあてられたのか、恥ずかしさが勝ったのか、なんだかおかしな応答をしてしまう。フィルは笑って彼女を抱きあげ、ほんの数歩しか離れていない寝台におろした。そして自分も服を脱ぎ、無造作に放ると、彼女の上に覆いかぶさる。裸の身体が動くと、しなやかな筋肉に目を奪われて、リアナはそのすべてを目で追っていた。自分のものとはまったく違う身体。緊張してなんと言えばいいのか、どうしていいのかわからない。激しい雨の音、フィルの重みで大きくきしむ寝台の音。消さずに残してある燭台の灯りが、琥珀色にあたりを照らしている。
粗末な寝台の上の本や上かけをフィルが足で払い落し、ばさばさっと音を立てて落ちたのが聞こえた。
それが、長い夜のはじまりだった。