6-3. フィルバートをめぐる冒険 ①
文字数 2,867文字
階下の音楽とざわめきが、暗い部屋にも忍びこんでいる。アーシャは自分に与えられている部屋に、フィルを伴 って戻った。大戦の英雄は、周囲にそれと気取らせることもなく、かいがいしくアーシャの世話を焼いてくれる。ケープと扇子を片づけ、身体を締めつけるコルセットのひもを緩め、足元から固いヒール靴を抜くのを、アーシャは当然のように眺めていた。
フィルは侍女から彼女の身の回りの品を受け取ると、それらをあるべき位置に置いていく。ドレスガウン、香水、入浴時の石鹸や香油、彼女の好む砂糖菓子や甘いワイン。
趣味の悪い、狭い部屋だこと、と、アーシャは形の良い鼻をしかめた。
御座所にしつらえてあった彼女の部屋は、こんなものではなかった。真珠とサンゴで飾られた椅子に、アエディクラ産の絹がふんだんにあしらわれたクッション、ソファ、象嵌 された磁器の壺……懐かしく思いだす。
「あの学者先生を見た? フィル」立ち動くフィルの背中に、アーシャは語りかけた。
「あなたの顔を見たときの彼ったら……」
冷笑とは思えない、鈴のような笑い声だ。
「ええ、じつに見ものでしたね」
「あの『黄金のマリウス』がエリサ王へのクーデターを企ててから、およそ二十年……黄竜のライダーたちは冷遇されている。餌を与えれば、絶対に食いついてくると思っていた」
その読みは当たっていた。
フィルはゆったりと部屋を渡ってくると、彼女にゴブレットを手渡した。
「ワインはいかがですか? あなたのために、アーマ産の翠蜜 ワインを手に入れたんですが」
アーシャは泰然 とうなずき、白ワインを杯に受けた。菓子のように甘い匂いが立ちのぼる。彼女の好みどおり、よく冷やしてあった。
「あなたも飲むといいわ、フィル」
「――飲ませていただけませんか?」
「それはなあに? わたくしに要求なの?」
「おねだりというやつですよ、わが姫」
巫女姫 は考えるように片眉を上げたが、結局、男の手を傾けて自分のゴブレットにワインを注ぐと、それを口もとに持っていった。唇をしめらすように飲ませる。
「そういうことじゃないんだけどな」
「わたくしは自分を安売りしないのよ、〈竜殺し 〉」
そっけなく言い、満足げに喉を鳴らした。黄金色をしたアーマのワインは、苦味もなくさらりと喉を通っていく。還俗 してはじめて酒を口にしたアーシャにも、抵抗なく飲める数少ない酒のひとつだ。
たとえ、生まれたときから神殿に暮らし、ものごころついた頃には巫女姫として神のように崇められていても、それは初潮を迎えるまでのこと。大神官でさえ彼女の権威の前にひざまずいたのに、いまでは神殿を追い出され、馴染まぬ貴族暮らしを強 いられている。
(でも、わたくしは過ぎたことをくよくよ思い悩むような女ではない)
自分はもう巫女姫ではないと告げられたとき、アーシャは自分の運命の進む道を決めたのだ。斎姫ではなく、王妃として生きるという道を。
そして、ひそかに賛同者を増やしていった。
伯父のエンガスは彼女を養女にして、国内の有力者たちに引き合わせてくれた。婚姻 の相手も勧められたが、アーシャは求婚者たちの誰にも興味を持たなかった。生涯清らかな体であれと求められたのに、今になって子を作れなどと言われても、嫌悪感が増すだけだ。だが、デイミオン・エクハリトスだけは別だった。恵まれた体躯 にすぐれた美貌、最強の黒竜をしたがえ、竜族の王にふさわしいすべてを兼ね備えた最高の男――これこそ、彼女にふさわしい男と言えるだろう。
そして今、彼女のそばには大戦の英雄、〈竜殺し 〉フィルバート・スターバウがついている。
半生 を神殿で過ごしてきた彼女には、戦時中の武勲 話などほとんど耳に入らないし、興味もなかった。ただ、この男一人で竜騎手団すべてに匹敵するといわれるほどの、神がかりめいた剣技を信頼しているだけだ。
ソファの背に白い腕をのせて、アーシャはリラックスした姿をみせる。蠟燭の灯りを映して、まっすぐにおろした髪が銀そのもののように輝いた。
「わたくしの家には、医術を司る青の〈乗り手 〉の長しか知らない秘術がある。それはクローナン王からお義父 さまのもとへ、そしてわたくしのもとへ……」
呟くと、ことり、と小さな音がした。ゴブレットを置いて、フィルバートがこちらに近づいたのだ。
「それだ」
その目が急に剣呑 な光を帯びるのを、アーシャは興味ぶかく見まもった。無害な羊のように薄笑いを浮かべている彼よりも、ずっといい。真剣な顔も、興奮にかすれた声も。青年につられるように、アーシャも立ちあがった。
「どんなに戦績 を立てても、〈ハートレス〉と呼ばれ、蔑 まれる……体内にたったひとつの臓器がない、ただそれだけで」
白く細い指が胸をたどり、鎖骨をたどった。アーシャは顔をあげ、フィルの薄茶色の瞳を見上げて悲しげに微笑んだ。
「かわいそうなフィル。あなたの気持ちがわかるのはわたくしだけよ」
そっと身体をすり寄せると、強い力で抱きしめられて、ため息をつく。なんてたくましく、頼もしい腕なのだろう。アーシャは男性を知らないが、こうして暖かい身体に自分を預けるのは心地よかった。
「俺に主君 を裏切らせるなんて、ひどい人だ」
フィルの甘く柔らかい声には、男の色気が滲 んでいる。
「わたくしに協力なさい。わたくしはあなたを竜族の真の男にしてあげられる。〈竜の心臓〉を与え、あなたを竜騎手 にしてあげる」
腕のなかから手を出すと、器用にその手を取られ、服従と忠誠を誓う口づけがおくられた。
「……仰 せのとおりに、俺の夕星 、希望の星」
♢♦♢
テオはしばらく黙っていたが、竜車 が目の前に見える頃になって、ようやく「殿下」と呼びかけた。
「この国で〈竜の心臓〉を持たずに生きるということがどんなことか、あんたにわかりますか? 〈血の呼 ばい〉に選ばれただけで、それ以外のなにも持たないのに、俺たちの上に立つということが? 〈竜殺し フィル〉がどんな思いで、あんたを守っていると思う?」
テオの金茶の瞳は、試すような色だった。
「わからない……」
フィルがどんな気持ちで、リアナを守っているか。それを知ることができるなら、なんでもする、と思わず言いそうになる。
「理由を聞きたい。でも、フィルは話してくれないと思う。どうしてなの? わたしが王の子だから?」
「俺たちは竜とのつながりを持たない。だからあの戦争の頃、竜祖と王への忠誠を誓っても、それを信じない者が大勢いた。〈ハートレス〉たちはずっと、戦うことで自分の存在価値を示せと教わってきたんです。使い捨て同然でも文句なんて言えなかった。地獄のような戦場に送られて、古竜一柱 の援護もなく、文字どおり死ぬまで戦って……その結末が、このザマだ」
テオのゆがんだ笑みは、どこかに凄絶 なものを感じさせた。戦場で地獄を見て生還 したというのなら、心にどんな魔を飼っていてもおかしくない。
彼も。フィルバートも。
「殿下、あんたは俺に傭兵 くずれとはいえ、俺たちは安 かないですよ」
フィルは侍女から彼女の身の回りの品を受け取ると、それらをあるべき位置に置いていく。ドレスガウン、香水、入浴時の石鹸や香油、彼女の好む砂糖菓子や甘いワイン。
趣味の悪い、狭い部屋だこと、と、アーシャは形の良い鼻をしかめた。
御座所にしつらえてあった彼女の部屋は、こんなものではなかった。真珠とサンゴで飾られた椅子に、アエディクラ産の絹がふんだんにあしらわれたクッション、ソファ、
「あの学者先生を見た? フィル」立ち動くフィルの背中に、アーシャは語りかけた。
「あなたの顔を見たときの彼ったら……」
冷笑とは思えない、鈴のような笑い声だ。
「ええ、じつに見ものでしたね」
「あの『黄金のマリウス』がエリサ王へのクーデターを企ててから、およそ二十年……黄竜のライダーたちは冷遇されている。餌を与えれば、絶対に食いついてくると思っていた」
その読みは当たっていた。
フィルはゆったりと部屋を渡ってくると、彼女にゴブレットを手渡した。
「ワインはいかがですか? あなたのために、アーマ産の
アーシャは
「あなたも飲むといいわ、フィル」
「――飲ませていただけませんか?」
「それはなあに? わたくしに要求なの?」
「おねだりというやつですよ、わが姫」
「そういうことじゃないんだけどな」
「わたくしは自分を安売りしないのよ、〈
そっけなく言い、満足げに喉を鳴らした。黄金色をしたアーマのワインは、苦味もなくさらりと喉を通っていく。
たとえ、生まれたときから神殿に暮らし、ものごころついた頃には巫女姫として神のように崇められていても、それは初潮を迎えるまでのこと。大神官でさえ彼女の権威の前にひざまずいたのに、いまでは神殿を追い出され、馴染まぬ貴族暮らしを
(でも、わたくしは過ぎたことをくよくよ思い悩むような女ではない)
自分はもう巫女姫ではないと告げられたとき、アーシャは自分の運命の進む道を決めたのだ。斎姫ではなく、王妃として生きるという道を。
そして、ひそかに賛同者を増やしていった。
伯父のエンガスは彼女を養女にして、国内の有力者たちに引き合わせてくれた。
そして今、彼女のそばには大戦の英雄、〈
ソファの背に白い腕をのせて、アーシャはリラックスした姿をみせる。蠟燭の灯りを映して、まっすぐにおろした髪が銀そのもののように輝いた。
「わたくしの家には、医術を司る青の〈
呟くと、ことり、と小さな音がした。ゴブレットを置いて、フィルバートがこちらに近づいたのだ。
「それだ」
その目が急に
「どんなに
白く細い指が胸をたどり、鎖骨をたどった。アーシャは顔をあげ、フィルの薄茶色の瞳を見上げて悲しげに微笑んだ。
「かわいそうなフィル。あなたの気持ちがわかるのはわたくしだけよ」
そっと身体をすり寄せると、強い力で抱きしめられて、ため息をつく。なんてたくましく、頼もしい腕なのだろう。アーシャは男性を知らないが、こうして暖かい身体に自分を預けるのは心地よかった。
「俺に
フィルの甘く柔らかい声には、男の色気が
「わたくしに協力なさい。わたくしはあなたを竜族の真の男にしてあげられる。〈竜の心臓〉を与え、あなたを
腕のなかから手を出すと、器用にその手を取られ、服従と忠誠を誓う口づけがおくられた。
「……
♢♦♢
テオはしばらく黙っていたが、
「この国で〈竜の心臓〉を持たずに生きるということがどんなことか、あんたにわかりますか? 〈血の
テオの金茶の瞳は、試すような色だった。
「わからない……」
フィルがどんな気持ちで、リアナを守っているか。それを知ることができるなら、なんでもする、と思わず言いそうになる。
「理由を聞きたい。でも、フィルは話してくれないと思う。どうしてなの? わたしが王の子だから?」
「俺たちは竜とのつながりを持たない。だからあの戦争の頃、竜祖と王への忠誠を誓っても、それを信じない者が大勢いた。〈ハートレス〉たちはずっと、戦うことで自分の存在価値を示せと教わってきたんです。使い捨て同然でも文句なんて言えなかった。地獄のような戦場に送られて、古竜
テオのゆがんだ笑みは、どこかに
彼も。フィルバートも。
「殿下、あんたは俺に
どうやって
頼めると考えているんです? ……