2-1. 嵐の夜 ①
文字数 2,960文字
魚釣りは、気晴らし以上のものだった。昼間に身体を動かすことで、夜の寝つきもよくなり、デイミオンのことばかりを考えずに済む。リアナはそのあとも何度かフィルに外出をねだった。二人きりで護衛もなしというのは、一国の王の外出としては異例だろうが、救国の英雄が同伴すれば、警備の兵たちも文句はつけられないということもわかってきた。
その日は、久しぶりにレーデルルを連れてきていた。春を迎えてから急に身体が成長しはじめ、飛行訓練もそろそろはじめたところだ。もうリアナが抱きあげることは難しく、炎の制御も覚えなければならない。竜の飼育で生計を立てていた〈隠れ里〉出身のリアナは、できれば自分一人で訓練したかったが、時間がなくて仕方がなく城の竜舎に預けっぱなしだった。短期間なら羽ばたかせてもかまわないと飼育人が許可してくれたので、今日は一緒に飛行訓練をしようとリアナも張り切っていた。
「飛行訓練か、いいね」走り竜 の背からリアナを抱えるようにして降ろしながら、フィルが言う。「でも、どうやるんですか?」
「ちゃんとやり方を聞いてきたから、大丈夫よ」
自信満々に言うと、レーデルルに向かって話しかける。「ほら、あっちに赤い実のついた木があるでしょう? あそこに行くのよ」
リアナが指さしたのは、いつも釣りをしている湖を見下ろす位置にある、切り立った岩の中ほどに生えた桜の木だ。ちょうど実のなる時期なので、かわいらしい双子の実をたくさんつけて、遠目からでもよく目立った。
「なるほど、滑空して降りるのか」フィルが感心したように言った。「たしかに、下は水だから落ちても安心ですね」
二人はあれこれと話し合い、釣りのために何度かつかった小舟を出して、木の近くまで漕いで寄せることにした。天気はやや薄曇りだが暖かく、水辺でも寒さは感じない。湖面には落ちた実が浮いて、深い青と周囲の緑のなかのアクセントになっている。小舟のなかの二人はといえば、絵のなかの一対のようにとはいえないかもしれない。リアナは少し古めかしいエッグブルーのデイドレス姿で、フィルはいつも通りの簡素なシャツとズボン、ショートブーツという軽装。もっとも、二人とも服装にはあまり関心がない。
「とってもおいしい実なのよ。ルル、食べたいでしょう? 上手に飛べば、食べられるわよ」
レーデルルに言い聞かせているリアナを眺めて、フィルがくすくす笑った。「なんだか、あなたが食べたいように聞こえるな」
「失礼ね」リアナはつんとすまして言った。「竜族の王があんな鳥の餌みたいな実を食べるとでも?……でも、まぁ、竜は鳥の王でもあるから、食べてもおかしくないかもしれないわ」
「ははは」フィルはこらえきれないように身体を折って笑った。もし櫂 を持っていなければ腹を抱えていたかもしれない。
木のそばに小舟を寄せると、レーデルルはばさりと羽を広げて水面へ飛んだ。小石が跳ねるように二、三度ジャンプしながら、桜の根元に着地した。仔竜がいなくなった瞬間、ボートが一気に軽くなるのを感じる。何をすればいいのか戸惑うような彼女の気配を一瞬感じた。木に登るのよ、と念で伝えて、そっと身体を木のほうへ押す。
(いいえ……もう、仔竜じゃないんだわ)
すでに胸元の羽毛は抜けおち、長い首から胴にかけては優美なラインを描いて、真っ白な鱗は虹色に固く輝いている。秋ごろにはもう成竜に近いサイズになるだろうと思った。
「もっと長く一緒にいられればいいのに……こんなふうに成長に気がつくなんて」
ぴょんぴょんと木をのぼりはじめた竜を見つめて、リアナは言った。「竜が大きくなるのはあっという間だわ」
おそるおそるといった様子で太い幹を跳ね歩くさまを、黙って見守る。ガガッ、と甘え鳴きの声を出して首を上下させる。怖がっているのだ。
〔いい子ね……怖くないわ……飛ぶのよ〕
〔羽ばたきをして。さあ!〕
呼びかけと同時に、レーデルルが滑空した。木がしなって、葉がざあっと鳴った。羽ばたきとともに風が起き、水面 に輪をえがいて、二人の髪をゆらめかせた。
実際の滞空時間は、ほんの数秒といったところだろうか。羽ばたきながらほとんど落ちているようなものだったが、着水したのが楽しいようで、ばしゃばしゃと水面を立たせている。
「遊んでないで。もう一回やってみて」
声に出して言い、〈呼 ばい〉も送って見たが、こういった複雑な命令は竜には伝わりにくい。練習する、という概念は竜にはないのかもしれない。それでもしばらく水遊びをすると、思い出したようにまた木登りをはじめ、そしてまた滑空した。今度は、ほんの少しだけ遠くまで落ちた。
「そう……そんなふうに……もっと力強く羽ばたかせて……」
応援に、つい力がこもった。
フィルはそんな主を見守っていたが、「じき、あなたを乗せて飛べるようになる」と言った。
何度もやっているうちに、羽ばたきが様になってきた。今度は、枝の上でぴょんぴょんと慣らし運転のように跳ねてから、脚にぐっと力を込めて飛び立った。
「あ、実が……」
そのせいだろうか、頭上からぱらぱらと赤い実が降ってきた。フィルは、目の近くですばやく腕を動かして、いくつかをキャッチし、リアナの手のひらに落とす。
「どうぞ、鳥と竜の王さま」
リアナは双子になった実をじっと見て、ひとつを齧 った。フィルを見あげ、首をかしげて言う。
「……甘いわ」
「ほんとうに?」フィルはいぶかしみながらリアナを見た。赤い実を齧 る口もとに、目が吸いよせられるように動いた。
「このあたりのは野生だけど……」
フィルはデイミオンとは違い、彼女をあまり直視することはない。目が合うと微笑んでくれるような優しい青年だが、見つめあうような状況はうまく避けている。だから、こんなふうにじっと見られるのは珍しかった。
蔕 をつまんで、彼の口に押しこんだ。リアナを見下ろしながら黙って咀嚼すると、フィルは眉をひそめた。
「……渋い。嘘をついたね」
「そうよ」自分も種を吐きだして、すまして言う。「わたし嘘つきなの。知らなかった?」
そのとき、またレーデルルが水面に飛びこみ、ばしゃんという大きな音とともに大量の水が周囲に飛び散った。もちろん、リアナも背中側から水を浴びた。
飛びこみの余波でボートが大きく揺れる。フィルは、「嘘つきの罰かな」と意地悪な笑みを浮かべた。
リアナは頭を振って水を落とした。「背中が濡れたわ」
「そろそろ戻りましょう。あなたが風邪をひくといけないし」
「こんなに暖かいんだし、平気よ……」
湖面を渡ってくる風が生暖かい。水の匂いに草いきれが混じり、なにか濃密な空気を運んできた。
フィルが顔をしかめて空を見上げるのとほとんど同時に、稲光が雲の裏をぱっと光らせた。
「今の……」
リアナが言いかけるよりも早く、フィルはすでに櫂 を握って、岸に向かって急いで漕ぎ出していた。
「雷だ。じき雨になる――」その声の最後は雷鳴でかき消される。
湖面にぽつぽつと輪が浮かんだかと思うと、あっという間に視界すらさえぎるほどの灰色の雨に包まれた。
岸に戻るあいだにも雨脚が強まり、水を吸ったドレスの重みによろめくリアナにフィルが手を貸して降りる。この時には、リアナはまだ気まぐれな夏の雨であることを疑っていなかった。
その日は、久しぶりにレーデルルを連れてきていた。春を迎えてから急に身体が成長しはじめ、飛行訓練もそろそろはじめたところだ。もうリアナが抱きあげることは難しく、炎の制御も覚えなければならない。竜の飼育で生計を立てていた〈隠れ里〉出身のリアナは、できれば自分一人で訓練したかったが、時間がなくて仕方がなく城の竜舎に預けっぱなしだった。短期間なら羽ばたかせてもかまわないと飼育人が許可してくれたので、今日は一緒に飛行訓練をしようとリアナも張り切っていた。
「飛行訓練か、いいね」
「ちゃんとやり方を聞いてきたから、大丈夫よ」
自信満々に言うと、レーデルルに向かって話しかける。「ほら、あっちに赤い実のついた木があるでしょう? あそこに行くのよ」
リアナが指さしたのは、いつも釣りをしている湖を見下ろす位置にある、切り立った岩の中ほどに生えた桜の木だ。ちょうど実のなる時期なので、かわいらしい双子の実をたくさんつけて、遠目からでもよく目立った。
「なるほど、滑空して降りるのか」フィルが感心したように言った。「たしかに、下は水だから落ちても安心ですね」
二人はあれこれと話し合い、釣りのために何度かつかった小舟を出して、木の近くまで漕いで寄せることにした。天気はやや薄曇りだが暖かく、水辺でも寒さは感じない。湖面には落ちた実が浮いて、深い青と周囲の緑のなかのアクセントになっている。小舟のなかの二人はといえば、絵のなかの一対のようにとはいえないかもしれない。リアナは少し古めかしいエッグブルーのデイドレス姿で、フィルはいつも通りの簡素なシャツとズボン、ショートブーツという軽装。もっとも、二人とも服装にはあまり関心がない。
「とってもおいしい実なのよ。ルル、食べたいでしょう? 上手に飛べば、食べられるわよ」
レーデルルに言い聞かせているリアナを眺めて、フィルがくすくす笑った。「なんだか、あなたが食べたいように聞こえるな」
「失礼ね」リアナはつんとすまして言った。「竜族の王があんな鳥の餌みたいな実を食べるとでも?……でも、まぁ、竜は鳥の王でもあるから、食べてもおかしくないかもしれないわ」
「ははは」フィルはこらえきれないように身体を折って笑った。もし
木のそばに小舟を寄せると、レーデルルはばさりと羽を広げて水面へ飛んだ。小石が跳ねるように二、三度ジャンプしながら、桜の根元に着地した。仔竜がいなくなった瞬間、ボートが一気に軽くなるのを感じる。何をすればいいのか戸惑うような彼女の気配を一瞬感じた。木に登るのよ、と念で伝えて、そっと身体を木のほうへ押す。
(いいえ……もう、仔竜じゃないんだわ)
すでに胸元の羽毛は抜けおち、長い首から胴にかけては優美なラインを描いて、真っ白な鱗は虹色に固く輝いている。秋ごろにはもう成竜に近いサイズになるだろうと思った。
「もっと長く一緒にいられればいいのに……こんなふうに成長に気がつくなんて」
ぴょんぴょんと木をのぼりはじめた竜を見つめて、リアナは言った。「竜が大きくなるのはあっという間だわ」
おそるおそるといった様子で太い幹を跳ね歩くさまを、黙って見守る。ガガッ、と甘え鳴きの声を出して首を上下させる。怖がっているのだ。
〔いい子ね……怖くないわ……飛ぶのよ〕
〔羽ばたきをして。さあ!〕
呼びかけと同時に、レーデルルが滑空した。木がしなって、葉がざあっと鳴った。羽ばたきとともに風が起き、
実際の滞空時間は、ほんの数秒といったところだろうか。羽ばたきながらほとんど落ちているようなものだったが、着水したのが楽しいようで、ばしゃばしゃと水面を立たせている。
「遊んでないで。もう一回やってみて」
声に出して言い、〈
「そう……そんなふうに……もっと力強く羽ばたかせて……」
応援に、つい力がこもった。
フィルはそんな主を見守っていたが、「じき、あなたを乗せて飛べるようになる」と言った。
何度もやっているうちに、羽ばたきが様になってきた。今度は、枝の上でぴょんぴょんと慣らし運転のように跳ねてから、脚にぐっと力を込めて飛び立った。
「あ、実が……」
そのせいだろうか、頭上からぱらぱらと赤い実が降ってきた。フィルは、目の近くですばやく腕を動かして、いくつかをキャッチし、リアナの手のひらに落とす。
「どうぞ、鳥と竜の王さま」
リアナは双子になった実をじっと見て、ひとつを
「……甘いわ」
「ほんとうに?」フィルはいぶかしみながらリアナを見た。赤い実を
「このあたりのは野生だけど……」
フィルはデイミオンとは違い、彼女をあまり直視することはない。目が合うと微笑んでくれるような優しい青年だが、見つめあうような状況はうまく避けている。だから、こんなふうにじっと見られるのは珍しかった。
「……渋い。嘘をついたね」
「そうよ」自分も種を吐きだして、すまして言う。「わたし嘘つきなの。知らなかった?」
そのとき、またレーデルルが水面に飛びこみ、ばしゃんという大きな音とともに大量の水が周囲に飛び散った。もちろん、リアナも背中側から水を浴びた。
飛びこみの余波でボートが大きく揺れる。フィルは、「嘘つきの罰かな」と意地悪な笑みを浮かべた。
リアナは頭を振って水を落とした。「背中が濡れたわ」
「そろそろ戻りましょう。あなたが風邪をひくといけないし」
「こんなに暖かいんだし、平気よ……」
湖面を渡ってくる風が生暖かい。水の匂いに草いきれが混じり、なにか濃密な空気を運んできた。
フィルが顔をしかめて空を見上げるのとほとんど同時に、稲光が雲の裏をぱっと光らせた。
「今の……」
リアナが言いかけるよりも早く、フィルはすでに
「雷だ。じき雨になる――」その声の最後は雷鳴でかき消される。
湖面にぽつぽつと輪が浮かんだかと思うと、あっという間に視界すらさえぎるほどの灰色の雨に包まれた。
岸に戻るあいだにも雨脚が強まり、水を吸ったドレスの重みによろめくリアナにフィルが手を貸して降りる。この時には、リアナはまだ気まぐれな夏の雨であることを疑っていなかった。