4-1. 再会 ③
文字数 2,456文字
肩に金色のモールのついた、黒い騎兵服。その後ろ姿を追っていたのを、見失ってしまった。
網 を使おうとしてみたが、館のなかにはあまりの人間がいて、それは網のなかでは〈ハートレス〉と判別がつかない。
この先で見つからないなら、来た道を戻ってみようかと迷いながら足を急がせる。行きかう召使たちの数が少なくなり、西側の翼棟に続く通路の手前まで来たところで、その姿を見つけた。
(――フィル!)
逃げられないよう、そっと後をついていく。小走りになって最後の角を曲がったとき、誰かの手がのびてきて、彼女をつかまえた。そのまま廊下を引っぱられていって部屋に連れこまれ、彼が扉を閉めて隙間から外を確認したときには、リアナはおびえてすっかり息を切らしていた。
「――な、なにをしているの、フィル?」
ハシバミ の目が、非難がましく見下ろしてくる。「それはこちらのセリフですね。なにをしているんですか? 俺の後を尾 けてきたりして。護衛はどこです?」
彼の目の動きで、観察されていることがわかった。にらみつけてやるつもりだったのに、その目に見下ろされるとつい目をそらしてしまう。部屋は、四方の壁を本棚が埋めつくし、至るところに机や書き物机 が置かれていた。それで、図書室とわかった。
護衛に告げずに抜け出してきたことは明白だった。フィルは扉へ向きなおった。「エサル公を呼ばせます」
「護衛なんてどうでもいいわ!」リアナは叫んだ。「どうして、タマリスからいなくなったの? どうしてここに、イーゼンテルレにいるの? どうして、ガエネイス王に――」
リアナが詰め寄っても、フィルは動じたそぶりも見せない。
「あなたには関係のないことです」
「フィル、みんな心配して探してたのよ。お願い、ちゃんと説明して。どうして――」
軍服のジャケットを掴むが、やんわりと手を外されてしまう。ため息がふってきた。
「説明しなければいけませんか? この格好を見れば明白では?」
「そんなものわからないわ。なぜアエディクラの服を?」
フィルはリアナの肩を掴んで、さりげなく自分との間に距離を置いた。
黒と紫のドレスは、この男と二人きりの場では大胆過ぎるような気がした。きらきら光る首飾りはルーイに渡してしまったし、彼の目線からは、首も鎖骨も肩もむきだしに見えてしまうに違いない。竜族の服のほうがよかった、と思ったが、今さらどうしようもない。
「わざわざ口に出したくはありませんが。……リクルートされたんですよ。今はアエディクラの軍の顧問をしています」
「アエディクラ軍!? オンブリアの敵じゃないの!」
「今は休戦中ですよ」
「どうして? でも――」
「ガエネイス王は実力を重んじる人です。人間の世界には〈竜の心臓〉も竜騎手 もない。俺のような者 にとって、悪くない条件だと思いますが」
「あなたの国はオンブリアなのよ!」
リアナは思わず叫ぶ。フィルの目は憎たらしいほど落ち着いていた。
「もう違います」
「……どうしてなの? 全然わからないよ。わたしが何者でも、そばを離れないって……だって、あの小屋で、わたしたち――」
リアナが必死に言いつのるうち、青年は自分から離した距離をみずからなくし、彼女を壁際に追いつめてその脇に腕をついた。そして耳もとまで頭を下げ、嘲りをこめた声でささやいた。
「その続きを、デイミオンに聞かせたいですか? 俺にはそんな趣味はないけど」
「フィル……」
顔をなかば掴まれ、両方の頬に彼の指が食い込むのを感じる。フィルの顔が近づき、ハシバミ色 の目の、下だけが緑がかった色が見えた。
「あなたは無分別がすぎる。俺があなたを傷つけないと思っているなら、間違いですよ」
冷たく、怒りをはらんでいるのに、クリームのようになめらかなフィルの声。体の熱さが感じられるほど近い。彼は砂と太陽と丁子 の香りがした。その熱と匂いに、混乱とともにめまいがするほどの欲求がわきあがる。そんな自分の反応に、リアナは衝撃を受けずにいられなかった。
しばらく、二人は声もなく見つめあった。お互いの目がお互いの顔を、目を、唇を探り、そしてまた、見つめる。身体の奥に、甘いしびれが広がっていく。
フィルバートの固い指が、耳の近くの髪に差しこまれた。一瞬の緊張と探り合い。そして二人とも用心深く目を開いたまま、いまにも唇が重なろうとした瞬間、彼がびくりと身体を引いた。
「……これは」
自分の指に、きらきら光る霜の粒がついているのを、青年は愕然と確認する。「そんな、嘘だ。……
それは、口に出すつもりのなかった言葉のように、感情というものが抜け落ちていた。
「もう遅いの、フィル」
彼女が何を知っているのか、それに気がついたように、フィルが苦渋の声をあげた。「まだ間に合う……!」
「いいえ、もう遅い」リアナは静かに繰り返した。
「もう、竜たちの王ではいられない。だから、戻ってきて。わたしを助けて、フィル――わたしを愛してるなら」
フィルの目に動揺が走った。少なくとも、リアナにはそう見えるなにかの感情が。だが、結局その動揺はすぐにかき消えてしまった。
「俺たちは違う道を行く」低い声が決然と言った。
「ですが、
「フィル、待って――」
リアナがあわてて言うのと、オーク材の扉が開いたのはほぼ同時だった。そして、首筋にあたる冷たい感触も。
「陛下から離れろ!」鬼の形相で走ってきたのは、ハダルクだった。「剣を放せ!」
彼の言葉で、自分の首に当たっているのがなにか分かった。相変わらず、いったいいつ剣を抜いたのだろうと思う。
「それ以上近づくな。意味はわかるだろう?」フィルはリアナを引き寄せたまま、うしろ向きに窓際へと近づいている。
〔ハダルク!〕
リアナは念話で呼びかけた。〔はったりよ。フィルはわたしを傷つけたりしない。はやく捕まえて!〕
〔わかっています!〕
この先で見つからないなら、来た道を戻ってみようかと迷いながら足を急がせる。行きかう召使たちの数が少なくなり、西側の翼棟に続く通路の手前まで来たところで、その姿を見つけた。
(――フィル!)
逃げられないよう、そっと後をついていく。小走りになって最後の角を曲がったとき、誰かの手がのびてきて、彼女をつかまえた。そのまま廊下を引っぱられていって部屋に連れこまれ、彼が扉を閉めて隙間から外を確認したときには、リアナはおびえてすっかり息を切らしていた。
「――な、なにをしているの、フィル?」
彼の目の動きで、観察されていることがわかった。にらみつけてやるつもりだったのに、その目に見下ろされるとつい目をそらしてしまう。部屋は、四方の壁を本棚が埋めつくし、至るところに机や
護衛に告げずに抜け出してきたことは明白だった。フィルは扉へ向きなおった。「エサル公を呼ばせます」
「護衛なんてどうでもいいわ!」リアナは叫んだ。「どうして、タマリスからいなくなったの? どうしてここに、イーゼンテルレにいるの? どうして、ガエネイス王に――」
リアナが詰め寄っても、フィルは動じたそぶりも見せない。
「あなたには関係のないことです」
「フィル、みんな心配して探してたのよ。お願い、ちゃんと説明して。どうして――」
軍服のジャケットを掴むが、やんわりと手を外されてしまう。ため息がふってきた。
「説明しなければいけませんか? この格好を見れば明白では?」
「そんなものわからないわ。なぜアエディクラの服を?」
フィルはリアナの肩を掴んで、さりげなく自分との間に距離を置いた。
黒と紫のドレスは、この男と二人きりの場では大胆過ぎるような気がした。きらきら光る首飾りはルーイに渡してしまったし、彼の目線からは、首も鎖骨も肩もむきだしに見えてしまうに違いない。竜族の服のほうがよかった、と思ったが、今さらどうしようもない。
「わざわざ口に出したくはありませんが。……リクルートされたんですよ。今はアエディクラの軍の顧問をしています」
「アエディクラ軍!? オンブリアの敵じゃないの!」
「今は休戦中ですよ」
「どうして? でも――」
「ガエネイス王は実力を重んじる人です。人間の世界には〈竜の心臓〉も
「あなたの国はオンブリアなのよ!」
リアナは思わず叫ぶ。フィルの目は憎たらしいほど落ち着いていた。
「もう違います」
「……どうしてなの? 全然わからないよ。わたしが何者でも、そばを離れないって……だって、あの小屋で、わたしたち――」
リアナが必死に言いつのるうち、青年は自分から離した距離をみずからなくし、彼女を壁際に追いつめてその脇に腕をついた。そして耳もとまで頭を下げ、嘲りをこめた声でささやいた。
「その続きを、デイミオンに聞かせたいですか? 俺にはそんな趣味はないけど」
「フィル……」
顔をなかば掴まれ、両方の頬に彼の指が食い込むのを感じる。フィルの顔が近づき、
「あなたは無分別がすぎる。俺があなたを傷つけないと思っているなら、間違いですよ」
冷たく、怒りをはらんでいるのに、クリームのようになめらかなフィルの声。体の熱さが感じられるほど近い。彼は砂と太陽と
しばらく、二人は声もなく見つめあった。お互いの目がお互いの顔を、目を、唇を探り、そしてまた、見つめる。身体の奥に、甘いしびれが広がっていく。
フィルバートの固い指が、耳の近くの髪に差しこまれた。一瞬の緊張と探り合い。そして二人とも用心深く目を開いたまま、いまにも唇が重なろうとした瞬間、彼がびくりと身体を引いた。
「……これは」
自分の指に、きらきら光る霜の粒がついているのを、青年は愕然と確認する。「そんな、嘘だ。……
早すぎる
」それは、口に出すつもりのなかった言葉のように、感情というものが抜け落ちていた。
「もう遅いの、フィル」
彼女が何を知っているのか、それに気がついたように、フィルが苦渋の声をあげた。「まだ間に合う……!」
「いいえ、もう遅い」リアナは静かに繰り返した。
「もう、竜たちの王ではいられない。だから、戻ってきて。わたしを助けて、フィル――わたしを愛してるなら」
フィルの目に動揺が走った。少なくとも、リアナにはそう見えるなにかの感情が。だが、結局その動揺はすぐにかき消えてしまった。
「俺たちは違う道を行く」低い声が決然と言った。
「ですが、
元
護衛として最後に忠告を。……イーサー公子を利用してください。イーゼンテルレはアエディクラに併合されたくない。オンブリアに力を貸したがっているはずです」「フィル、待って――」
リアナがあわてて言うのと、オーク材の扉が開いたのはほぼ同時だった。そして、首筋にあたる冷たい感触も。
「陛下から離れろ!」鬼の形相で走ってきたのは、ハダルクだった。「剣を放せ!」
彼の言葉で、自分の首に当たっているのがなにか分かった。相変わらず、いったいいつ剣を抜いたのだろうと思う。
「それ以上近づくな。意味はわかるだろう?」フィルはリアナを引き寄せたまま、うしろ向きに窓際へと近づいている。
〔ハダルク!〕
リアナは念話で呼びかけた。〔はったりよ。フィルはわたしを傷つけたりしない。はやく捕まえて!〕
〔わかっています!〕