3-3. 花火と半死者 ①
文字数 3,120文字
南の国の夕暮れは早い。壮麗な城が日の名残を受けてしばらくのあいだ輝き、そして暗く沈んでいった。新郎新婦、イーゼンテルレの大公夫妻、そして来賓の王と諸侯たちは、郊外に用意された天幕へと移動した。ソーン河の対岸から、祝言の花火を打ち上げるとのことだった。
ガエネイス王が自らと諸王たちのために建設したという豪奢なボートが、幾艘も河に浮かび、それぞれの燈火 が幾百もの明かりを水面に投げかける。楽士たちを載せた舟があり、優雅な響きがはじまった。
ゆれる舟が波を送って、岸をひたひたと打つ。水の音に混じって、貴族たちの笑い声がのぼる。音楽がやんだかと思うと、最初の花火が轟音とともに天にはじけた。あたりは一瞬静まりかえり、ふたたび音楽が流れ、侍従たちがわっと歓声をあげた。オンブリアでは、花火はとても珍しいものなのだ。
リアナの目は花火を追ったが、長くは続かなかった。座椅子に腕をもたれて、周囲に聞かれないようにそっとため息をつく。たぶん、楽しい気持ちになるべきなのだろうが、気分が沈んでしまうのを止められない。
「船酔いかい? 具合がよくなさそうだね」
隣で夜空を見上げていたはずのファニーが、そうささやいた。目ざといというか、常にその場の全体を見ているようなところが、この少年にはある。
「そうかも」リアナも小さな声で返した。
「宴席でも、あまり食べていなかったみたいだけど……大丈夫?」
「うん、なんだか……移動して疲れたのかな。あんまり食欲がなくて……」
食欲がないのは今日に限った話ではない、ということをファニーに相談するべきかどうか、リアナは悩んだ。繁殖期 に入る前後から、食欲が落ちることが気になっていた。体重や体格には変動はないようだし、体調が悪いということはないので、ストレスからだろうと軽く考えていたのだが。
味覚の変化も気になっていた。宴席では、砂を噛むような味の食べ物が多いなか、火がほとんど通っていない生の竜肉だけを、とてもおいしく感じた。里にいたころは、好んで食べなかったものだ。
成長期にある嗜好の変化と言ってしまえばそれだけなのだが……。
舟に乗り込んでいたイーゼンテルレの廷臣が、そろそろご準備をいただきたい、と丁重に告げた。リアナはうなずく。
「竜の水芸なんて……」内容を聞いたファニーは不満顔だ。
「王に余興をさせるなんて、どういうつもりかな?」
「花火は友好と和平の象徴でもある。竜もまたしかりさ。建前上はな」
エサルが含みのある口調で言う。「その実、国力と威信を示すことも欠かせない。……花火は火薬を扱う技術力の証でもある。お返しに、こちらも竜の威力を見せておく必要があるのさ」
オンブリアの五公は、軍人で、かつ外交官でもある。そのあたりの事情はよくわかっているのだろう。
ファニーは鼻を鳴らした。「僕は気に入らない」
「いいのよ」リアナは立ちあがって、手袋をはずし、侍従にわたした。「これで無駄な衝突が防げるのなら、安いものだわ」
エサルも同じように準備をはじめている。「では、打ち合わせ通りにお願いします、陛下」と堅苦しく言った。
レーデルルがぴょんと跳ね、その動きで舟が揺れた。白い古竜はふわりと羽ばたいて、そのまま螺旋を描くように河の上空へと躍り出ていく。
それを見送ったリアナは、自分のなかにある水を探しはじめた……
ここには、あまりにも水が多い。当たり前のことだが、白竜の力を使いはじめて間がないリアナには、まず集中することが第一の壁になる。そろそろと内部に手を伸ばしていくが、河はまるで大音量の音楽のように騒がしく、自分のなかの水をかき消してしまう。
(集中、もっと集中して……)
舟にひたひたと打ち寄せる水が静まりはじめ、風を失って帆先の紋章旗がしおれた。河の力は、リアナのなかの力よりもはるかに大きいように思えた。引っ張られ、水に引きずり込まれていくような感覚があり、気を抜くと河と自分が一体化してしまいそうになる。
(あまり深くへ潜っちゃいけない)
はっと気がつき、浅いほうへ浅いほうへと自分を引きあげていく。自分が引きずり込まれるだけではなく、河の奥から水を引きだせば、その威力で舟が沈んでしまうかもしれないからだ。
枝の先についた小さな芽を芽吹かせるように、遠く小さな力で――そのイメージがうまくいった。水面から水が跳ね、ぴちゃんと落ちる。下流から呼び起こした水が、ある一点で集結した。うねりながら、雌の成竜をイメージした優美な形に集まっていく。エサルが腕を振って、音も熱もない閃光を放った。
それは花火よりはるかに鮮やかな色をしていた。
空のように澄んだブルー、熟れたカボチャのオレンジ、まばゆく光る緋色、暖かみのある白、きらきらした黄色……。
「俺はどんな色の幻影も作れる。金属と熱と加工は紅竜の領域だからな」エサルが小声で言った。「だが、どうやるのかはまったくわからない。そこが人間たちと違う」
警戒のこもった声だった。
「エサル公」
ファニーが見あげる領主の顔はけわしい。
「やつらの花火には色がないが、どんな色だろうが火薬には違いない。詠唱もなしで使えるマスケット銃。城塞を砕く可動式の大砲……」
リアナは、自分の目と、竜の目のふたつで世界を見ていた。竜の目は河の暗い流れを見下ろし、そこに映る花火の影を興味深く観察している。
はじける花火に、ガエネイス王のボートが明るく照らされ、ほんの一瞬だけなにかが見えた気がした。王と取りまきの貴族、近衛兵、とてもたくさんの侍従たち。
そして、王のすぐ隣にいる人影に、二つの心臓が止まるかと思った。
竜の意識のなかで感覚が研ぎ澄まされ、直接目の奥に飛びこんできたようなその姿は、フィルバートに
まさかそんな、という思いと、でも、もしかしたら、という思いが入り混じる。強い緊張が身体を支配し、水でできた竜がその意志に応じるように激しく旋舞した。
〔陛下。そろそろ十分だろう〕
エサルの声が直接届き、タイミングを伝えてくる。リアナははっと我に返ると、同調し、それに合わせて水で形作った竜を勢いよく散らした。エサルがその水に大量の光をまとわせ、乱反射する光のなかのガラス細工のように、激しくきらめかせた。
緊張がほどかれると同時に、急にぐったりと疲れ、水がリアナを引きずりこもうとするのを感じた。疲労感には奇妙な高揚感も混じっていた。
わき上がる歓声。手を打って賞賛をおくる者たちもいる。
疲労でふらつく身体をエサルがそれとなく支えた。そして、ありがたいことに、舟を河岸に寄せるようにと命じた。
竜の力を使っているときの自分は、普段の自分の意識とは違う、とリアナは気づいていた。良くも悪くも自制が取り払われ、力を使い、力と一体になりたいという欲望が強くなる。言語にできない深い部分で竜という原始の生き物とつながっているせいだろうか。
(もっと自分を保てるようにならないと)
頭を振って、現実の世界に意識を戻そうと努めた。そして、はっと思い出す。フィル。
(フィル……確かめたい、どうしても)
「陛下!?」
よろめきながら舟を下り、周囲の制止を振りきって走りだした。どうやって、は頭から抜け落ちている。河岸は諸侯たちの天幕と、随行や使用人、兵士たちが入り混じっていた。障害物としか思えないそれらを避け、ときにはぶつかって罵声を浴びながら、リアナは走った。
はあ、はあ、と荒く息をつきながら……
悲しいのか、腹立たしいのか、わからなかった。吐き気もおさまらず、単に生理的な不快感のせいだけかもしれない。片腹に鈍い痛みを感じて、走っているせいだと気がつく。
ガエネイス王が自らと諸王たちのために建設したという豪奢なボートが、幾艘も河に浮かび、それぞれの
ゆれる舟が波を送って、岸をひたひたと打つ。水の音に混じって、貴族たちの笑い声がのぼる。音楽がやんだかと思うと、最初の花火が轟音とともに天にはじけた。あたりは一瞬静まりかえり、ふたたび音楽が流れ、侍従たちがわっと歓声をあげた。オンブリアでは、花火はとても珍しいものなのだ。
リアナの目は花火を追ったが、長くは続かなかった。座椅子に腕をもたれて、周囲に聞かれないようにそっとため息をつく。たぶん、楽しい気持ちになるべきなのだろうが、気分が沈んでしまうのを止められない。
「船酔いかい? 具合がよくなさそうだね」
隣で夜空を見上げていたはずのファニーが、そうささやいた。目ざといというか、常にその場の全体を見ているようなところが、この少年にはある。
「そうかも」リアナも小さな声で返した。
「宴席でも、あまり食べていなかったみたいだけど……大丈夫?」
「うん、なんだか……移動して疲れたのかな。あんまり食欲がなくて……」
食欲がないのは今日に限った話ではない、ということをファニーに相談するべきかどうか、リアナは悩んだ。
味覚の変化も気になっていた。宴席では、砂を噛むような味の食べ物が多いなか、火がほとんど通っていない生の竜肉だけを、とてもおいしく感じた。里にいたころは、好んで食べなかったものだ。
成長期にある嗜好の変化と言ってしまえばそれだけなのだが……。
舟に乗り込んでいたイーゼンテルレの廷臣が、そろそろご準備をいただきたい、と丁重に告げた。リアナはうなずく。
「竜の水芸なんて……」内容を聞いたファニーは不満顔だ。
「王に余興をさせるなんて、どういうつもりかな?」
「花火は友好と和平の象徴でもある。竜もまたしかりさ。建前上はな」
エサルが含みのある口調で言う。「その実、国力と威信を示すことも欠かせない。……花火は火薬を扱う技術力の証でもある。お返しに、こちらも竜の威力を見せておく必要があるのさ」
オンブリアの五公は、軍人で、かつ外交官でもある。そのあたりの事情はよくわかっているのだろう。
ファニーは鼻を鳴らした。「僕は気に入らない」
「いいのよ」リアナは立ちあがって、手袋をはずし、侍従にわたした。「これで無駄な衝突が防げるのなら、安いものだわ」
エサルも同じように準備をはじめている。「では、打ち合わせ通りにお願いします、陛下」と堅苦しく言った。
レーデルルがぴょんと跳ね、その動きで舟が揺れた。白い古竜はふわりと羽ばたいて、そのまま螺旋を描くように河の上空へと躍り出ていく。
それを見送ったリアナは、自分のなかにある水を探しはじめた……
ここには、あまりにも水が多い。当たり前のことだが、白竜の力を使いはじめて間がないリアナには、まず集中することが第一の壁になる。そろそろと内部に手を伸ばしていくが、河はまるで大音量の音楽のように騒がしく、自分のなかの水をかき消してしまう。
(集中、もっと集中して……)
舟にひたひたと打ち寄せる水が静まりはじめ、風を失って帆先の紋章旗がしおれた。河の力は、リアナのなかの力よりもはるかに大きいように思えた。引っ張られ、水に引きずり込まれていくような感覚があり、気を抜くと河と自分が一体化してしまいそうになる。
(あまり深くへ潜っちゃいけない)
はっと気がつき、浅いほうへ浅いほうへと自分を引きあげていく。自分が引きずり込まれるだけではなく、河の奥から水を引きだせば、その威力で舟が沈んでしまうかもしれないからだ。
枝の先についた小さな芽を芽吹かせるように、遠く小さな力で――そのイメージがうまくいった。水面から水が跳ね、ぴちゃんと落ちる。下流から呼び起こした水が、ある一点で集結した。うねりながら、雌の成竜をイメージした優美な形に集まっていく。エサルが腕を振って、音も熱もない閃光を放った。
それは花火よりはるかに鮮やかな色をしていた。
空のように澄んだブルー、熟れたカボチャのオレンジ、まばゆく光る緋色、暖かみのある白、きらきらした黄色……。
「俺はどんな色の幻影も作れる。金属と熱と加工は紅竜の領域だからな」エサルが小声で言った。「だが、どうやるのかはまったくわからない。そこが人間たちと違う」
警戒のこもった声だった。
「エサル公」
ファニーが見あげる領主の顔はけわしい。
「やつらの花火には色がないが、どんな色だろうが火薬には違いない。詠唱もなしで使えるマスケット銃。城塞を砕く可動式の大砲……」
リアナは、自分の目と、竜の目のふたつで世界を見ていた。竜の目は河の暗い流れを見下ろし、そこに映る花火の影を興味深く観察している。
はじける花火に、ガエネイス王のボートが明るく照らされ、ほんの一瞬だけなにかが見えた気がした。王と取りまきの貴族、近衛兵、とてもたくさんの侍従たち。
そして、王のすぐ隣にいる人影に、二つの心臓が止まるかと思った。
竜の意識のなかで感覚が研ぎ澄まされ、直接目の奥に飛びこんできたようなその姿は、フィルバートに
とても
よく似ていた。まさかそんな、という思いと、でも、もしかしたら、という思いが入り混じる。強い緊張が身体を支配し、水でできた竜がその意志に応じるように激しく旋舞した。
〔陛下。そろそろ十分だろう〕
エサルの声が直接届き、タイミングを伝えてくる。リアナははっと我に返ると、同調し、それに合わせて水で形作った竜を勢いよく散らした。エサルがその水に大量の光をまとわせ、乱反射する光のなかのガラス細工のように、激しくきらめかせた。
緊張がほどかれると同時に、急にぐったりと疲れ、水がリアナを引きずりこもうとするのを感じた。疲労感には奇妙な高揚感も混じっていた。
わき上がる歓声。手を打って賞賛をおくる者たちもいる。
疲労でふらつく身体をエサルがそれとなく支えた。そして、ありがたいことに、舟を河岸に寄せるようにと命じた。
竜の力を使っているときの自分は、普段の自分の意識とは違う、とリアナは気づいていた。良くも悪くも自制が取り払われ、力を使い、力と一体になりたいという欲望が強くなる。言語にできない深い部分で竜という原始の生き物とつながっているせいだろうか。
(もっと自分を保てるようにならないと)
頭を振って、現実の世界に意識を戻そうと努めた。そして、はっと思い出す。フィル。
(フィル……確かめたい、どうしても)
「陛下!?」
よろめきながら舟を下り、周囲の制止を振りきって走りだした。どうやって、は頭から抜け落ちている。河岸は諸侯たちの天幕と、随行や使用人、兵士たちが入り混じっていた。障害物としか思えないそれらを避け、ときにはぶつかって罵声を浴びながら、リアナは走った。
はあ、はあ、と荒く息をつきながら……
悲しいのか、腹立たしいのか、わからなかった。吐き気もおさまらず、単に生理的な不快感のせいだけかもしれない。片腹に鈍い痛みを感じて、走っているせいだと気がつく。