溺死愛

文字数 2,337文字

 幻のように息が白い。
……。
……。
彼女と俺が二人きりになったのは凍える宵だった。脇を流れる川の水は真冬だろうと少なくない。川原の石には薄い雪が凍りついている。それらを俺が乗っていた大型バスの焔が照らしている
峠のトンネルを抜けた長距離路線バス――爆発がまた巨大なかがり火を引き起こす。それでも、はるか上に架かる橋の影を映せない
……。
君も生き延びたんだね
俺は彼女のもとへよろよろと歩く。足をくじこうが、頭から血が流れていようが、火傷を負っていようが、この大惨事に巻き込まれて生存している俺はとてつもない悪運だ。でも彼女はそれを上回っているかも
……。
見た目に怪我は見当たらない。ショックが強すぎるのか黙ったままだ

もっと大きい爆発が起きるかもしれない。バスから離れよう


俺は告げるけど、彼女は俺を見つめるだけ……ミドルヘアを明るく染めたきれいな子だ。二十歳前かもしれない

ここにいるべきだよ
彼女が口を開く。やけにしっかりした声に、俺は考えなおす。動かずにいればじきに救助は来るだろう。

でも俺は大事な荷物を持っている

悩むんだ
彼女が薄く笑う
だったら、やっぱり逃げよう






 

はあ、はあ……


ここを動いてはいけないと分かっている。俺は足を引きずり歩きだす。浮き石に転ぶ。巨岩を這いつくばって越える。荷物が邪魔だけど燃やすわけにはいかない
バスはなんで落ちたのだろう
 彼女が背後で言う。この子は平然と歩く。余裕で俺の後をついてくる。
見てなかったのか? 寝ていたのか?


俺は喘ぎながら振り向かずに告げる。全身の痛みは打ち身どころじゃない。でも、この崖を登って道路へ戻らないと

見てはいない
……。


他人事みたいに言う……俺は振り返る。彼女と目が合う

……。

彼女は薄く笑う。俺は冷えた石へとしゃがみこむ。

丸い目を強調させるきつめのメイク。誰もいない場所に二人きり。やましい心を持つはずない

……。
だったら知る必要ない。


それだけ言って俺は立ちあがる。頑張れ。道まで戻れ。それ以外を思念するな。彼女は立ったままで俺を見ていた

じゃあ、おじさんの名前と年齢を教えて
忘れた

 ただただ歩きはじめるんだ。

ふうん、意外だね
何が?
みんな私に興味を持つかと思っていた
持っていいのか?
うーん……
この子は茶目っ気ぽく悩む
誘導尋問みたいだから駄目。怒られちゃう

真っ暗闇。なのに、この子は跳ねるように石を越える。

俺へと振り向く

私より愛でる対象。それが残ったままだからだよ
え?
じゃあね
この子は俺を置いていく。俺は激痛を思いだす。でも登らないと。帰らないと
大切な荷物。もっと大切な……






 

 バスが燃えている。いい気味だ。しかも俺だけ生き延びた。まだまだやってやる。

俺は炎上するバスから黒煙とともに抜けだす。顔は熱傷でただれている。腕も肋骨も開放骨折だ。そんなはずはない。だから痛くない。

 油の匂いは人が燃える匂いをかき消すのかな。巨大なトーチが沢を照らす。山奥だろうと煙のせいで星は見えない。はるか上にかかる橋もだ――


……。
鉄が焦げる匂いでもかき消せないのは女のシルエット。焦熱の地獄から抜けだして、それを背に俺を見ている。しかも若い。さらには美人だ

これはこれは、生存者がいたとはね。

こっちに来い

いいけど、登らないの?
言われて思いだす。そうだ道に戻れ。まだまだ足りない

一緒に来い。


女に命じる。やり終えたら、こいつを犯そう。それでひと区切りだ

怯えればいいのかな?
そうだ

女は俺に怯えてついてくる。逃げられるはずない。

俺は絶壁を登る。道は近づくが……今夜は雑念がある。女のせいだ。こいつを襲いたい。だがまだだ。我慢しろ。女の体に溺れるのは最後の最後だ

バスはなんで落ちたのかな

見てないのか?

だったら何故俺に怯える?

真相は知る人に聞くしかない。だから教えて
見返りは?
私を愛していいよ。溺れるくらいに
……。

俺はすでにこの女に溺れている。俺は気づいている。こいつは人外のものだ。魅惑すぎる化け物だ。だから離れられない。逃げられない。

そもそも怪物こそ俺にお似合いだ。

たいした話じゃないぜ。俺が運転手の首をナイフで切って、代わりに運転してやった。そして下り坂で時速120キロを超えたバスが欄干からダイブしただけだ。


ははははは。思いだしても痛快だ。運転を誤った対向車を含めて三十人は殺せたな。しかも俺は生き延びた。もっともっと一緒に地獄へ落ちるものを増やすために

ふふふ、覚えているんだ。けっこうリアルに。

念が深いね

だろ?


この女も生き延びた。俺に犯されて殺されて喰われるために

……。

約束だ。愛させてもらうぜ。お前はマジでいい女だ


暗黒の急傾斜の踏み跡。俺は浮かぶように女へ近寄る

よく言われるよ。食べちゃいたいぐらいかわいいらしいね
子どもの頃から人外の奴らに大人気だから、こんなものを持っている
 女の右手の中が赤く輝く。
……あれはお札だ。護符が激しく怒り狂っている
ひいい、許してください


俺は闇へと逃れようとする

いいの? そしたら私を愛せないよ。食べるほどに愛せないよ

そんなことを言わないでくれ。俺は振り向いてしまう。女へと近寄ってしまう。

消される前に一舐めだけでも

あんたは事故のあと地縛霊になり四人()った。合わせて三十五人だ。

……これから先は悲惨だよ

女が薄く笑う。その首へと伸ばした俺の手に護符が触れて

あああ……


際限なき辛苦が待つと分かっている地の底へ引きずられる――
……。

退散させました。


了解です。気をつけて戻ります

 女は端末に簡潔に伝え、事故のあとに作られた山道を登り返す。

 立ち止まり振りかえる。

ボランティアで成仏させてやるか。

私の肌より子どもへのお土産が大事だった若いパパを、お空に向かわせてあげる

 女は真っ暗な沢へと再び一人降りる。満天の星には照らされない。
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