溺愛鰯

文字数 2,945文字

鰯が溺れるほどに愛しあおう
 熱帯夜が遠ざかった金曜の宵、食器を洗う僕へと妻が提案した。

ドキドキ

え? いいけど

(僕はちょっとドキドキしてしまう)

ワクワク

君は勘違いしている。肉体でなく精神的に愛しあいたいの
そうなんだ。……なんで鰯?
溺れるも鰯も右サイドが弱いから。

酒に溺れたり推しに溺れるは、格好いいけどやっぱし直情的。雑魚ぽい

うん、なんにしろ適量は必要(僕は基本彼女の肯定派だ)
だけど愛に溺れるはロマンスさえ感じる
溺愛だ。なんであれ度を超すことも必要
そう。寵愛よりさらに激しく盲目に愛する
 たしかに格好いいかも。僕はエプロンを脱いで振り返る。
それは僕が君に? 君が僕に?
そりゃもちろん君が私への愛に溺れるに決まっている。それと脱ぐついでにエプロンで手を拭いたね。今後はやめよう

シミジミ

(初めて会ってから八年経とうが、いまだ僕は彼女が大好きだ。疲れさせる性格だけど、それを凌駕するほどにはかわいい。

……控え目な僕の自己主張こそ鰯の右サイドだと思う。それでも妻を人並み以上に愛してきた――(おも)に心の奥底で。

 表にはださなくとも、結婚前と変わらず好き好き好きの嵐だ)

ニヤニヤ

なんだかしみじみにやにやした顔だよ
(妻に観察されていた)
で、愛しあうの? あわないの?
……。

(『従うか死か』みたいな口振り……。これはまたしても妻の思いつきの試練だったのか。二人の仲に刺激を与えるって奴だ。僕には不要だけど、妻には必要な奴だ)

僕からだけだと一方通行だよ。愛しあうにならない
受け身だって愛でしょ!
……。

(言われると確かに。

 なんであれ次の段階へ悪化させてはいけない。そのためには試練をクリアしろ)

じゃあ週末は君を溺愛すればいいんだね?
明日からね。今夜は鬱陶しいからやめて
 そう言って、妻はスマホを弄りだす。
……。
 僕は鰯が溺れるほどの愛について考える。……僕が魚類だったら鰯かななんて卑下しないけど、鮪や鮫では間違ってもない。妻は……きれいでかわいい熱帯魚かな?

(水槽を優雅に泳ぐ妻……。ニヤニヤ

 こんな発想できる僕は彼女への溺愛に自信ある。鰯どころか鯖や鯛が溺れるほどに愛してやろう)

ニヤニヤ

 土曜日の朝。妻より早く起きるはいつものことだ。

朝食はベッドで食べる?

(微笑みかける。フルーツとミルクとブレッドのシンプルモーニング)

それよりも、おはようのキスは?
(寝起きの悪い妻が不機嫌な顔を向ける。たしかに溺愛の初歩の初歩だった)
チュッ
で、朝食はベッドで――
発想が貧弱。それだとメダカも溺れない
 妻が布団をかぶり、二度寝する。
おやすみ(溺愛夫は受容する。どうせ予定もないし)
ベタ

……。

(九十分後にトイレと歯磨きを済ました妻が言う)
僕の愛し方が? でも王道こそが愛だよ
違う。

闘魚(ベタ)が溺れるほどの愛を見せて。鰯だと君は妥協するだけだ

(妻はいまだ不機嫌だが、たしかに妻はきれいで激しいベタかも。などとのろける僕)
僕を魚に例えると何かな?
海亀。ご飯より先に散歩しよ。腕組んで
…………。

(こ、これは……知らぬ間に彼女は次なる段階の『言いがかりモード』に突入していた。鬱憤が溜まり一年に一度は発生する奴だ。結婚前から存在を確認していたから、今さら恐れない。でも悪化させてはいけない)

どうしたの?
なんでもないよ


(この後の妻は3パターンある。機嫌戻していつもの陽キャになるか、泣くほどに僕へ当たり散らすか、『故郷に帰る』と鬱になるかのどれかだ。後者の二個が複合したこともあった。

 もちろんいつもの元気に軟着陸させたいけど……溺愛、鰯……)

散歩しよ。腕組んで
 低いトーンで言いなおす妻。
うん。でも最初は手をつなごう
お、いいねえ
(午前十時過ぎの十月に上着は不要だ。妻の手は今日も温かいし。僕たちは並んでアパートの狭い階段を降りる)
私を魚に例えると?
ベ(タと言いかけてしまう)

それより海亀は魚でないよ

だって君に当てはまる魚なんていないよ。生臭くないし……強いて言えば鰯かな
ひどくね?
でも鰯は鬼より強い
節分ネタだ
で、私は何?
エンゼルフィッシュ
気にいった。じゃあ腕を組もう
 狭い道に車が来たので、二人は並んで端に寄る。もちろん妻が内側。白線の内側の内側。
(仕事の愚痴、上司と同僚の悪口。妻のいつものを聞きながら近くの公園を一周する。恋人同士だろうと腕を組むのは恥ずかしかった。妻は平気だった。いつしか僕も慣れたけど、この公園の名物になっていないよな)






 

私は普通の奴
(ベンチで休憩。僕はすぐそこのコンビニへコーヒーを買いにいく。……溺愛とは溺れるほどに愛するだけど、溺れさせるほどに愛するのもありかも。ラテン系でない僕には無理だけど)
 
(戻ると妻はいなかった)
『溺れ足りないからムカついて帰った』

 ドアホン越しに妻が告げる。鍵は彼女しか持って出なかった。

コーヒーが冷めるから入れてよ
『私たちのが先に冷めそう』
(ベンチで一人ぼっちがいけなかったらしい。どこに罠が潜んでいるか分かったものじゃない……思いついた)
これじゃあ岩戸どころか天の鰯だよ
『うまい』
(天照らす妻の機嫌は戻ってドアが開く)
コーヒー温めなおそう






 

(服を脱がずにベッドで寄り添いあう。僕は文庫本を読み、妻はスマホを弄っている。……今回の言いがかりモードは平和裏に終わるかも。なんて思ったのに)
やっぱり会社辞める。そんで家に帰りたい
……。

帰る家はここだよ

ベタなセリフ
……帰る水槽はここだよ。鰯とベタが
ベタ?
エンゼルフィッシュだった
だったら溺れろ
君に?
やっぱ帰る
分かった。溺れよう

(妻に抱きつく)

やめろ。一人にして

(縄抜けの達人みたいに抱擁をかわし、布団をかぶってしまった。

 僕はベッドから降りる)

水族館に行こうか?

(乗ってきたら儲けぐらいに提案してみる)

……。
それかペットショップ。魚を飼ったりして
鰯?
(布団の中から声が返ってきた)
鰯を飼うの? 買うの?
(いい兆候かも。一週間続くはずのどんよりを兆しだけで終わらせられるかも)

飼いたいか食べたいで決まる

……。

(君は鰯を飼いたい? 食べたい?

 君は布団から顔を覗かせる)

飼えないよ。海水プールが必要。しかも野良猫や野良ペンギン、野良サワラに端から食べられる
サッ
 そう言って君はまたもぐる。
じゃあ熱帯魚は?
一人で食べて
二人で食べる
熱帯魚を?
……鰯にしようか?
……。
……。
 土曜日の静かな正午前。
飼わないし買わない
はい?

(妻の声がくぐもって、でもはっきりと聞こえた)

釣りにいこう
 布団が吹っ飛んだ!
買わないし飼わない。あいつもあのハゲも端から釣って食ってやる

(妻が跳ねるように起きあがる。

 げげっ、僕も彼女も釣りは素人だ。竿も糸も針もない。でも拒絶してはいけない。機嫌を戻してもらうため思いつきに従え。おそらく鰯は海にいる)

房総方面で貸し竿の看板を何度か見た覚えがある
じゃあ車だね

 やったぜ、今日の二人は即座に起動しなおした。

 どうせ妻はメイクもしないから、僕らは十分後には駐車場に向かうだろう。そして半分弱いわがままエンゼルフィッシュへ溺れるために、半分鰯の海亀が白い軽自動車を走らせる。

♪♪♪

(ドアの鍵を閉めた妻が振り向き僕を見上げる)
溺れているのはベタだったりして
(笑いながら腕を組んでくる。秋深まる前の正午)
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