溺愛鰯
文字数 2,945文字
熱帯夜が遠ざかった金曜の宵、食器を洗う僕へと妻が提案した。
たしかに格好いいかも。僕はエプロンを脱いで振り返る。
シミジミ
(初めて会ってから八年経とうが、いまだ僕は彼女が大好きだ。疲れさせる性格だけど、それを凌駕するほどにはかわいい。
……控え目な僕の自己主張こそ鰯の右サイドだと思う。それでも妻を人並み以上に愛してきた――
表にはださなくとも、結婚前と変わらず好き好き好きの嵐だ)
ニヤニヤ
そう言って、妻はスマホを弄りだす。
僕は鰯が溺れるほどの愛について考える。……僕が魚類だったら鰯かななんて卑下しないけど、鮪や鮫では間違ってもない。妻は……きれいでかわいい熱帯魚かな?
土曜日の朝。妻より早く起きるはいつものことだ。
チュッ
妻が布団をかぶり、二度寝する。
…………。
(こ、これは……知らぬ間に彼女は次なる段階の『言いがかりモード』に突入していた。鬱憤が溜まり一年に一度は発生する奴だ。結婚前から存在を確認していたから、今さら恐れない。でも悪化させてはいけない)
なんでもないよ
(この後の妻は3パターンある。機嫌戻していつもの陽キャになるか、泣くほどに僕へ当たり散らすか、『故郷に帰る』と鬱になるかのどれかだ。後者の二個が複合したこともあった。
もちろんいつもの元気に軟着陸させたいけど……溺愛、鰯……)
低いトーンで言いなおす妻。
狭い道に車が来たので、二人は並んで端に寄る。もちろん妻が内側。白線の内側の内側。
ドアホン越しに妻が告げる。鍵は彼女しか持って出なかった。
そう言って君はまたもぐる。
土曜日の静かな正午前。
布団が吹っ飛んだ!
やったぜ、今日の二人は即座に起動しなおした。
どうせ妻はメイクもしないから、僕らは十分後には駐車場に向かうだろう。そして半分弱いわがままエンゼルフィッシュへ溺れるために、半分鰯の海亀が白い軽自動車を走らせる。