第17話 ガダラの悪霊【4】

文字数 1,781文字

 中島らも『ガダラの豚』は、前述した通り、人生で一番読み返すことになる小説なのだが、小説の冒頭、新約聖書からの引用がある。
 ガダラって場所で、人間に取り憑いた悪霊をイエスが豚に乗り移させた話のところの引用だ。
 そのときの悪霊は〈レギオン〉と呼ばれていて、日本のテレビゲームなどによく登場する。
 実はこの引用は、ドストエフスキーの小説『悪霊』の冒頭と同じ箇所を引用しているところがミソだ。
 ドストエフスキー『悪霊』は、町に悪者としてのカリスマ性を持ったスタヴローギンという男性が戻ってくるところから始まる。
 革命の旗頭のようにスタヴローギンを仕立て上げたい周囲の人々の話、というような内容だ。
 のちにドストエフスキーの長編を全て読破することになる僕だが、僕が女の子から聖書をもらった話は、『悪霊』のエピソードというよりも、どちらかというと、『罪と罰』のラストで、主人公が女性に言われて露西亜の大地にキスをする、そのシーンの原形だったと言われている、ドストエフスキーがシベリア流刑になったときに女性から聖書をもらった話に似ていて、思い出すと不思議なものを感じる。

 話が長くなりそうだけど、ゆっくりと、ドストエフスキーのシベリア流刑の話をしよう。
 ソルジェニーツィンの『収容所群島』も、僕はもちろん全巻読破しているので、シベリアと言えばそっちの話も書きたいし、その『収容所群島』にも登場する、ソルジェニーツィンと同時期に収容所送りになった文学者のミハイル・バフチンの話もしたいが、それは、また別の機会に譲ることになるだろう。
 今は、帝政露西亜の作家、ドストエフスキーの話だ。







 社会主義というと、つくったのはマルクスとエンゲルスのような気がしてしまうが、実は空想社会主義と呼ばれるユートピア論がいろいろあって、こういう社会があったらいいよね、という風にユートピアを語って、勉強会などが各地で開かれていたのだが、そこに〈理論〉を与えてしまったのが、カール・マルクスなのである。
 レーニンが率いるボリシェビキが露西亜革命を起こし、トロッキーは殺され、スターリンがボスになったソ連だが、ソルジェニーツィンはスターリン主義を「個人崇拝だ!」と呼んだ。
 今でも、これは「一国社会主義」と呼ばれる形態であり、マルクスが言っていたこととは違うよね、という立場が「西欧マルクス主義」であり、西欧マルクス主義の牙城と言えばドイツのフランクフルト学派なのは有名だ。
 そして、今日で言う『社会権』、つまり『社会権的基本権』と呼ばれる基本的人権のひとつは、近代国家の初期の、いわゆる夜警国家にはなかったことも重要で、この話と繋がっている。
 社会主義が出てきて、そこで民主主義でも「福祉」を基本的人権に加えることとなり、それが社会権になった、と政経の教科書でも語られる。
 最小限度の機能だけを国家に持たせる夜警国家を「小さな国家」と言い、福利厚生ガッツリの福祉国家路線を「大きな国家」と呼ぶ。
 今のリバタリアンとコミュニタリアン論争に繋がるので、覚えておくと面白いかもしれない。
 話を戻すと、露西亜革命の数年前にドストエフスキーは亡くなった。
 遺作は『カラマーゾフの兄弟』。
 カラマーゾフは、実は続編が構想されていて、その続編とは、カラマーゾフ兄弟のひとりが革命家になる、という内容だったらしい。


 若い頃のドストエフスキーは、空想社会主義の、つまり、ユートピア論の勉強会に参加していた。
 が、革命を起こそうともくろんでいると睨まれて、逮捕された。
 銃殺刑が言い渡された。
 銃で撃たれようとするそのとき、「恩赦がくだったぞ!」と言われ、殺されずに済んだ。
 死ななかったドストエフスキーは、シベリアに流刑にされたのであった。
 そこで、現地の主婦たちが組んだ慈善団体かなんかの女性に、「これを読んで反省しなさい」と、聖書を渡されたのであった。
 ところで。
 ユートピア論とは、それ自体もヤバかったのだろうか。
 実は、そこには、ドストエフスキーの小説にも影を落とす、ロシア正教会から敵視されていた〈異端派〉の跋扈があった、と僕は思う。
 めちゃくちゃ異端派の数々が流行っていたのである、ドストエフスキーのいた時代。
 異端派と空想社会主義で、どう線が結ばれるのか。
 つづきは、次の項に譲ろう。




〈次回へつづく〉
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

成瀬川るるせ:語り手

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み