第57話 世界の果てのフラクタル【14】

文字数 1,363文字

 音楽の先生の〈オススメ〉がどう良かったか、について語りたいと思う、ということだった。
 音楽の女性教師が音楽の授業中に流した、一推しのドキュメンタリーの主役はアンディ・ウォーホルで、ウォーホルは美術家だった。
 僕はとても感銘を受けた。
 前々回はそういう話の途中だった。
その、前々回の続きが、今回の話だ。







 ウォーホルは、ぱっと見では、世相を斬っている、時事ネタに敏感な作品をつくっていたように思える。
 だが、シルクスクリーンの作品を〈ファクトリー〉と呼んだ工房でつくったり、キャンベルスープの缶のような、大量生産大量消費の象徴を、ただただ表層的に、内面を除去したかのように冷徹に描き出したりというのは、〈他の創作ジャンル〉、特に〈文学〉と照らし合わせた場合、そこには時事やニヒリスティックさだけでは回収しきれないものが浮かび上がってくる。
 それはなにかと具体的にいうと、〈歴史コンプレックス〉だ。
「歴史」=「表面の、その中にあるもの」の、〈不在〉。
 その歴史の不在こそを、ウォーホルは描いたのではないか、と僕は思っている。

 例えば日本の場合には〈外国コンプレックス〉がある。
 それと同様に、当時はマッチョイズムを誇っていた米国では、拭いきれない〈歴史コンプレックス〉があったのであろうことがウォーホルの作品から読み取れる。
 だから、米国は逆説的に歴史に敏感なのだ、と僕は思う。
 ミクロな〈歴史〉という意味合いでの〈個人史〉に対しても敏感で、だからこそハリウッド映画には魅力的に造形されたヒーローという人格が求められる。
 人格ということは、特有の個人史……歴史がある、ということだ。
 そうして、ヒーローとしての〈国〉としても、いつも〈敵〉を定めて、ジャスティスを名乗る……ヒーローであるべき所以がある、というわけだ。
 そういう見方もある、という話で、これは僕の個人的な意見だけども。







 メイフラワー号で行われたメイフラワー誓約。
 のちのアメリカ連邦制の基礎の一つとなった誓約。
 メイフラワー誓約は多数決主義モデルに基づいていて、開拓者達が生き残るために誓約の規則と規定に従うことに同意する、〈社会契約〉になった。
 アメリカがメイフラワー誓約にまで話を遡ってそれをよく参照する話、僕は興味あるけど、複雑な背景がある話なので、その話は、深入りするのを避けよう。
 でも、とりあえず、連邦制が出来ることになったその源流まで遡ることを、日本人では考えられないくらい頻繁にして、それを参照するらしい、ということだけ、ここでは言いたい。
 歴史への敏感さを、僕は読み取る。
 日本人が逆に歴史に対しておおらかで、アルカイックな部分がある、という見方も出来るけれども。


 なにはともあれ、フォークナーである。
 日本人にも有名なアメリカの作家の一人に、ウィリアム・フォークナーがいる。
 フォークナーの描いた〈ヨクナパトーファ・サーガ〉をして、その歴史コンプレックスが、のちに世界中でフォロワーとなる作家たちを生み出す〈文学〉……〈サーガ〉をつくりだすに至った話を、僕はしたい。

 だが、紙数が増えるので、次項でその話を続けることにしよう。
 ていうか今回、いつもとは違う意味で、かなり不謹慎な内容の文章を書いてしまったなぁ。
 ちょっと後悔。






〈次回へつづく〉
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成瀬川るるせ:語り手

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