第59話 世界の果てのフラクタル【16】

文字数 1,526文字

 文学で「~サーガ」と呼ばれている作品はすべて、ウィリアム・フォークナーの強い影響下にある。
 日本では、例えば阿部和重『神町サーガ』や、佐藤友哉『鏡家サーガ』などがそれに該当する。

 だが、フォークナーの影響がある作家と言えば、ガブリエル・ガルシア=マルケスや大江健三郎や中上健次を思い起こすひとの方が多いのではなかろうか。

 純文学では、その作家にとって他に代用の利かない〈特別な場所〉が小説の舞台になることがあって、それを文学批評用語で〈トポス〉という。
 大江健三郎の描いた〈四国の森の奥〉や中上健次の描く〈路地〉が、彼らにとってのトポスだ、ということになる。
 フォークナーにとっての〈トポス〉は、もちろんヨクナパトーファである。
 影響関係はそこだけ切り取っても、あるのである。







 ガルシア=マルケスや中上健次に、特に一番影響を及ぼしたしたであろうフォークナーの作品は、『アブサロム、アブサロム!』であろうと僕は思う。
 それは、中上健次の場合、フォークナー『アブサロム、アブサロム!』で語られるだけ語られているだけで、実際に登場するわけではない人物、トマス・サトペンの描かれ方が、中上健次の代表作『枯木灘』で主人公の親として文字通り地域に君臨している人物、浜村龍造の描き方と似ていることからもうかがえる。
 ガルシア=マルケスで言えば、『百年の孤独』の蜃気楼の村の100年の歴史を語るのが主になるその手法は、『アブサロム、アブサロム!』が、時代背景を南北戦争の前後約50年間として長いレンジを取っていることと似た手法である、ということが挙げられると思う。
 そして、マルケスと中上の小説は、登場人物たちの複雑すぎて図がないと覚えきれないような血脈の繋がりが、やはり強い影響関係にあるからなのだ、と僕には思える。

 ガルシア=マルケスは、マジックリアリズムのコンテクストで語られることが多い。
ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』は、ブエンディア一族が蜃気楼の村マコンドを創設し、隆盛を迎えながらも、やがて滅亡するまでの100年間を舞台としているということで、『アブサロム、アブサロム!』の倍の長さで作品が進行していくのだが、フォークナーのヨクナパトーファと同じように、『百年の孤独』の舞台である、マコンドという村も文字通り〈蜃気楼の村〉であり、「豚の尻尾の生えた者が生まれたときに、血脈は絶える」と作品内で予告され、そして予告通りに、最後には村は〈蜃気楼〉のようにかき消えるのだ。
 そう、〈偽史〉は、〈偽史〉として、現実世界からかき消されるのである。
 そういう意味では、『百年の孤独』は、フォークナーの描いたヨクナパトーファ・サーガへの〈アンサー小説〉だった、という見方も、出来るかもしれない。


 なにはともあれ、僕は今回、紹介と独自解釈を試みたすべての小説を読破している。
 ガルシア=マルケスに至っては新潮社から出た『ガルシア=マルケス全小説』シリーズを全巻揃えての読書だった。
 素晴らしい小説の数々だったが、ガルシア=マルケスの小説でのフェイバリットは『コレラの時代の愛』である。
 ぜひ、読まれることを望む。


 ……って、なんでこんな話になったのだろうか。
 あはは。
 蛇足に蛇足を重ねちゃダメだろう。
 ずいぶん僕は遠くへ来たものだ。
 三毛猫ホームズを読んでいたところから始まった僕の読書遍歴は、今回の話のように、遙か彼方へと向かい、僕は帰ってくることが不可能な地点へと着いてしまった。
 良かったのか、どうなのか。
 それは、わからない。
 僕はいつか、自分の書いた小説が日の目を見ることを夢見て進むだけだ。
 ここが〈蜃気楼の村〉ではないことを願いながら。





〈了〉
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成瀬川るるせ:語り手

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