第131話 太陽を掴んでしまった【5】

文字数 1,225文字

 浅草の現場で警備員の仕事を一週間することになった僕であった。
 いつもは世田谷区で働くのだが、浅草は流石に遠かった。

 着替えを終えて、誘導灯をベルトのホルスターにしまって先輩警備員のところに行く。
 すると、先輩警備員のおっちゃんが、面白い話があるのだが、と言うので、どんな話だか、訊いてみた。
「るるせか。おはよう」
「おはようございます。で、面白い話とは」
「今は夏だ。水分補給をするわけだが」
「わけだが、……なんですか?」
「この現場では特に、なのだが」
「ふむふむ」
「ペットボトルを路上に置いてはいけない。どこの現場でも当たり前のことではあるが、この現場の場合」
「はい。なんでしょうか」
「飲みかけの飲み物も、平気で飲まれるぞ」
「路上に、置いてある飲み物が、ですか」
「そうだ。浅草の、ここは競馬場があるだろう」
 そうなのである。
 正確には、今ではウインズ浅草と呼ばれる場所。
 そこは「場外馬券場」といって、競馬場の馬券を場外で買うことが出来る施設だ。
「ありますねぇ。それがなにか」
「負けが込んだ奴は、かなりやけくそになっているし、なによりジュースを買う金すらスってしまってないのだから、道端にジュースが落ちていたらラッキーだ、とすら思う奴がいるのだよ。奴らは、道端に食べ物が落ちていたら平気で食う。毒入りか、なんて気にしない」
「マジすか」
「試すだなんて言い出すなよ、るるせ」
「はい!」
 と、いうわけで、試す僕なのであった。
 スポーツドリンクを少し飲んで、飲みかけのペットボトルを、電柱の下に僕は置いた。
 すると、如何にも競馬場にいそうなカーキ色の服と帽子をかぶったおっちゃんが、僕が置いたペットボトルを手に取り、ぐびり、と飲んだ。
 中身はまだ入っている。
 おっちゃんは、どうするか。
 自分のバッグにペットボトルを突っ込み、そそくさと、なに食わぬ顔で去って行ったのであった。

「マジか……」
 電柱の下にあったら、事故と関係しているか、散歩中の犬にマーキングされているかの二択だと考えるのが普通ではないだろうか。
 そう思ったのだが、先輩警備員に訊いてみると、
「ああ。それな。事故のところにお供えがあったら平気で食うよ。でも、ここだとその確率が高い、というだけで、そういう輩はどこにでもいるからな。気をつけろ」
 だ、そうである。
 そう。
 今回もまた偏見に満ちたことを書いているが、奇行をする奴らはそこらじゅうにいるのを、僕は警備員で路上を観察した間、たぶん、普通のひとよりも多く見た。
 ただ、ギャンブルに負けた直後のひとは、特に奇行に走る傾向にあるようだった。
 これは僕の経験則でしかないが。
「マジかぁ」
 僕は唸った。

 そんなわけで、僕は浅草での仕事を終えて、フランス座もちょっと外から覗いて、それから帰宅する。

 休みじゃない日も、スタジオ練習が待っている。
 僕は、ただひたすらに、バンドにのめり込んだ。
 熱い、そして暑い夏だった。
 バンドの話は、まだ続く。



〈了〉
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

成瀬川るるせ:語り手

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み