第87話 YAMAHA:QY100【8】
文字数 1,789文字
その日、僕が勤めているカラオケボックスで、団体客が大部屋で合コンをしていた。
僕は合コンなんてしたことなかったから、とても羨ましかった。
僕は店員として、ドリンクやフードをその大部屋に運ぶ。
わいわいきゃぴきゃぴしながら、背広を着たサラリーマンたちと、十代後半から二十代の女性と思わしき人々がカラオケで歌ったり飲み食いしながら談笑にふけっている。
「いいご身分だぜ」
僕は吐き捨てるように、大部屋の防音ドアを閉めてから呟いた。
その日も僕はトイレ掃除をする。
合コンに来ている大勢の女性が来ないうちに、僕は女子トイレの清掃を終える。
次いで、男子トイレの清掃だ。
僕は棒の付いたタワシで、ごしごしと磨く。
清掃をしていたら、泥酔した背広の男が、ふらついた足取りでトイレに入ってくる。
男は、僕に向かって、叫んだ。
「おれみたいにはなるなよ! おれみたいな奴になるなよ、少年!」
「は、はぁ」
僕が頷くと、背広は「うおー!」と咆哮してから、トイレを使用した。
「おれみたいにはなるなよ!」
もう一度叫んで、背広は去っていった。
合コンの参加者だったはずだ、この客は。
おれみたいになるな、だと?
僕は首をかしげる。
それはこっちの台詞だ。
背広、おまえは会社員で、おそらくはサラリーを安定してもらっているであろう、小金持ちだ。
合コンで女性をひっかけようとしているし、お持ち帰りでもするだろう。
人生を謳歌している、という言い換えもできる。
一方の僕はどうだ。
貧乏極まりなく、社会的信用もお金もゼロ。
将来は野垂れ死にになるのが、ほぼ確定している。
背広、僕の方こそ、おまえに言いたい。
「おれみたくなるなよ!」と。
そんな思いを胸に秘めて、僕は再び、トイレ清掃にいそしむのであった。
☆
無駄な話にこそ、本質が含まれているとはよく言ったものだ。
本質。
スピノザによると、〈コナトゥス〉こそが、物の〈本質〉らしい。
スピノザの書いた『エチカ』第三部定理七には、
「おのおのの物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」
と、書いてある。
古代のギリシアだと〈本質〉は〈かたち〉、つまり見かけや外見のことであり、それをギリシア語で「エイドス」と呼ぶ。
だが、スピノザは、外見ではなく、〈力〉が〈本質〉だ、と言ったのだ。
この力、言い換えるとコナトゥスと呼ばれるもの、そのコナトゥスとはどういう力なのか。
そのひとが持つ個人史、生まれ育った環境、誰とどんな関係性を持ってきたか、それがコナトゥスの意味する〈力〉だ。
性質の力、だ。
エイドス、つまり〈外見〉だったら、そういった〈性質の力〉が無視されてしまう。
だから、スピノザはひとりひとりの性質のありようを具体的に見て個々人の性質の力の組み合わせを考える必要がある、とした。
活動能力を高めるために、エイドスではなく、コナトゥスを考えること。
どのような性質を持ったひとがどんな場所でどんな環境を生きているかを考えたとき、はじめてひとは活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。
活動能力を高めたとき、〈コナトゥス〉で、ひとは〈自由〉になれる。
スピノザの倫理とは、あくまで組み合わせで考える。
個々人には差があって、それを考慮する。
たとえば、そのひとにとって善いものでも、あるひとには善くないものだ、ということが必ず生じてしまうからだ。
☆
話が逸れた。
無駄な話にこそ、本質が含まれているとはよく言ったものだ、というその〈本質〉とは、エイドスではなく、コナトゥスのことだ、と言いたかった。
本質ってたぶん、〈なんかそれっぽい言葉〉に聞こえるので使いたがるひとが多いが、根本のものであり、同時に、それはひとりひとり違う、性質の組み合わせでできた〈力〉を指すのだ。
無駄に思える話、その話を対話しているひとりひとりの本質は、〈一目見ただけでわかる外見ではなく〉て、〈性質のかけ合わせ〉であって、だからこそ、無駄話のような細部にこそ本質は宿るのだ。
今回話した、合コンのひとと僕の擦れ違いが、〈無駄な話にこそ、本質が含まれている〉ということを浮き彫りにするのではなかろうか。
僕はそう思うのだけれども、どうかな。
そんなことを思考しながら、上京のために僕はせっせと働くのであった。
〈次回へつづく〉
僕は合コンなんてしたことなかったから、とても羨ましかった。
僕は店員として、ドリンクやフードをその大部屋に運ぶ。
わいわいきゃぴきゃぴしながら、背広を着たサラリーマンたちと、十代後半から二十代の女性と思わしき人々がカラオケで歌ったり飲み食いしながら談笑にふけっている。
「いいご身分だぜ」
僕は吐き捨てるように、大部屋の防音ドアを閉めてから呟いた。
その日も僕はトイレ掃除をする。
合コンに来ている大勢の女性が来ないうちに、僕は女子トイレの清掃を終える。
次いで、男子トイレの清掃だ。
僕は棒の付いたタワシで、ごしごしと磨く。
清掃をしていたら、泥酔した背広の男が、ふらついた足取りでトイレに入ってくる。
男は、僕に向かって、叫んだ。
「おれみたいにはなるなよ! おれみたいな奴になるなよ、少年!」
「は、はぁ」
僕が頷くと、背広は「うおー!」と咆哮してから、トイレを使用した。
「おれみたいにはなるなよ!」
もう一度叫んで、背広は去っていった。
合コンの参加者だったはずだ、この客は。
おれみたいになるな、だと?
僕は首をかしげる。
それはこっちの台詞だ。
背広、おまえは会社員で、おそらくはサラリーを安定してもらっているであろう、小金持ちだ。
合コンで女性をひっかけようとしているし、お持ち帰りでもするだろう。
人生を謳歌している、という言い換えもできる。
一方の僕はどうだ。
貧乏極まりなく、社会的信用もお金もゼロ。
将来は野垂れ死にになるのが、ほぼ確定している。
背広、僕の方こそ、おまえに言いたい。
「おれみたくなるなよ!」と。
そんな思いを胸に秘めて、僕は再び、トイレ清掃にいそしむのであった。
☆
無駄な話にこそ、本質が含まれているとはよく言ったものだ。
本質。
スピノザによると、〈コナトゥス〉こそが、物の〈本質〉らしい。
スピノザの書いた『エチカ』第三部定理七には、
「おのおのの物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」
と、書いてある。
古代のギリシアだと〈本質〉は〈かたち〉、つまり見かけや外見のことであり、それをギリシア語で「エイドス」と呼ぶ。
だが、スピノザは、外見ではなく、〈力〉が〈本質〉だ、と言ったのだ。
この力、言い換えるとコナトゥスと呼ばれるもの、そのコナトゥスとはどういう力なのか。
そのひとが持つ個人史、生まれ育った環境、誰とどんな関係性を持ってきたか、それがコナトゥスの意味する〈力〉だ。
性質の力、だ。
エイドス、つまり〈外見〉だったら、そういった〈性質の力〉が無視されてしまう。
だから、スピノザはひとりひとりの性質のありようを具体的に見て個々人の性質の力の組み合わせを考える必要がある、とした。
活動能力を高めるために、エイドスではなく、コナトゥスを考えること。
どのような性質を持ったひとがどんな場所でどんな環境を生きているかを考えたとき、はじめてひとは活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。
活動能力を高めたとき、〈コナトゥス〉で、ひとは〈自由〉になれる。
スピノザの倫理とは、あくまで組み合わせで考える。
個々人には差があって、それを考慮する。
たとえば、そのひとにとって善いものでも、あるひとには善くないものだ、ということが必ず生じてしまうからだ。
☆
話が逸れた。
無駄な話にこそ、本質が含まれているとはよく言ったものだ、というその〈本質〉とは、エイドスではなく、コナトゥスのことだ、と言いたかった。
本質ってたぶん、〈なんかそれっぽい言葉〉に聞こえるので使いたがるひとが多いが、根本のものであり、同時に、それはひとりひとり違う、性質の組み合わせでできた〈力〉を指すのだ。
無駄に思える話、その話を対話しているひとりひとりの本質は、〈一目見ただけでわかる外見ではなく〉て、〈性質のかけ合わせ〉であって、だからこそ、無駄話のような細部にこそ本質は宿るのだ。
今回話した、合コンのひとと僕の擦れ違いが、〈無駄な話にこそ、本質が含まれている〉ということを浮き彫りにするのではなかろうか。
僕はそう思うのだけれども、どうかな。
そんなことを思考しながら、上京のために僕はせっせと働くのであった。
〈次回へつづく〉