第147話 坂の途中【7】

文字数 1,882文字

 僕はバンドのラストライブが終わったあと、「オーディションがある」というので、千代田区六番町にあるSME……ソニーミュージックエンターテインメントの本社ビルまで行った。
 ちなみに、その場所は現在、アニプレックスというアニメ会社の本社ビルになっている。
 演奏するものだと思って楽器を持ってきたら、控え室でいきなり、
「時間30秒あげるからプレゼンしてね〜」
 との指示があった。
 とっさの機転が利く人間が勝つ、ということで、僕はボロボロだった上に、なんか撮影されてしまった。
 アニプレックスかソニーに僕のなにも出来ずおろおろしている映像が今も残っていると思うと、やるせない気持ちがある。
 と、それを言ったら、高校時代、NHKは僕が役者をやっている演劇を撮影しているのだし、記録映像には苦笑するばかりだ。
 オーディションの帰り、「裏口からお帰りください〜」と案内嬢が言うので、裏口からビルを出た。
 出たところで、
「ん? さっきの案内嬢、やけに可愛かったな。声をかけて一緒に夕飯でも食べよう」
 と思って引き返して、ビルに入ろうとしたら、ドガッシャァ!! と乱暴に裏口ドアを閉める音がした。
 再入場することは不可能となった。
 ちなみにこれがデジャヴったのは、2015年に東浩紀さんの特別セミナーを受けに、某出版社の〈戦略会議室〉と名付けられている部屋に入って、オーディエンス5人くらいのなか、東浩紀さんの話を聞いていたりしどろもどろで質問したりしたときのことである。
 インターネット生放送で中継されたし、帰り、やはり裏口から帰れとの指示を受けて帰ったのだが、一回戻ろうとしたら、やはりブロックするかのように、裏口がドガッシャァ!! と大きな音を立てて締められたのだ。
 デジャヴだ〜。






 僕は新宿歌舞伎町のコマ劇場の居酒屋〈信玄屋形〉で働くことを続けていた。
 フロアの女の子が可愛いので、からかうと、
「いやああぁぁ##&$#QWEE#’%$(&%&$($%&((&%%’WQ%#%&”#%’”$’ッッッ!」
 と、飛び上がって、外国語を早口でまくしたてるので、とても可愛かった。

 一方、料理をつくる厨房に行くと、背の低い女の子が割烹着を着て、見習いをしていた。
 彼女は中卒で働き出した、まだ若い女の子らしかった。
「るるせさん。むずむずするときはティシュで液体を包めば良いんでよぉ。わたしを見てむずむずしてきませんかぁ」
 ふむ!
 この娘もなに言っているのかちょっとわからないけど可愛い!
 だが、僕はカクテルやドリンクをつくる厨房に付きっきりで、料理人のいる厨房に行くことがあまりなく、この子としゃべる機会がほとんどなく、誘いに乗ることもからかうことも出来ないのであった。

 それはともかく、僕は田舎に帰ることを決めた。
 最後、信玄屋形の支配人が、こう言ったのを、僕は未だに覚えている。
「ここは、東宝株式会社で運営している。君にもしもなにかあったら、必ず東宝は助けてくれるよ。だから、これからの人生も頑張って」
 東宝株式会社で運営していたことをそのときになって気付く僕だったが、なんとなく、今後の人生も頑張ろうかな、と思う僕だった。







 もう、夏を迎えていた。
 僕は陽炎が立ち上がるなか、南大沢のキャンパスを抜けて、休憩することが出来る丸太の椅子に座って、ガスマスクの袋でつくったリュックから、ミヤダイのところで書いたノートや、ミヤダイが雑誌連載していた社会学の概論をコピーしたものを読んでいた。
 僕は、田舎に帰ることを決めていた。
 僕の近くには、誰もいなくなってしまった。
 泣きたかった。
 誰もいないし、僕は泣こうとしていた。



 ——♪坂の途中、思いは募っていく。新しい闇に堕ちる。消されてく時間を過ごすという儚さに髪を梳かす。種子をまいては摘み取れやしない。本当はみんなに会いたいのに♪——



 グレイプバインの『坂の途中』を唄う、幼いその声を僕は聴く。
 ノートから目を離し、顔を上げる。
 そこには、まだ幼稚園生くらいの女の子がいて、彼女が、『坂の途中』を、僕を見ながら唄っている。
 その子は僕に近づいてくる。
 抱きしめたかった、僕は、その子を。
 だけど、彼女の後ろから彼女のお母さんがやってきて、その子に言う。
「まだ早いのよ、あなたには」
 言われたその女の子は、お母さんに手を引かれて、団地に戻っていく。
 陽炎のなか、彼女の唄った『坂の途中』が脳内でリフレインする。
 涙が、頬を伝った。

 僕の旅は、こうして幕を閉じたのだった。




〈エピローグへつづく〉
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成瀬川るるせ:語り手

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